
未西の語り
十代のある時期、人とうまく話せなくなっていた。
仲の良いクラスメイトや、大好きで一緒にいたくてしかたない子と交わす言葉さえ、あらかじめノートに書き出し、台詞をくり返してから口に出す。こういう現象のことは、大人になってから周囲へ説明しても反応はあまりないか、あったとしても「そういう時期、あるよね」とか、「思春期には起こりがちだよね」といった同情や世辞に限られる。もちろん反応をくれる時点でありがたいのだけれど、あなた自身も経験していたのでなかったら、起こりがちなことだと思うのはなぜなのか。どれくらいありふれた思春期の迷いに過ぎないのか、あるいは言葉の違う隣の国の人たちでもそうなのか、わからない。
古西作品を読むとよく思い出されるのは、そうしてうまく発語できなかった頃に抱えた心象であり、目にした光景の数々であり、関係性の網目のなかでその後おぼえた違和感だ。ささやかな例を挙げるならそれらは、かわいげな家出をした中学2年のとき、お年玉をはたいて向かった恐山や秋吉台の鍾乳洞で感覚した異界の気配であり、のちに列聖される老女の掌から直につたわる血の通った温もりや、20歳のころ南方の島でのしかかられた幽霊の唇から伝わるひんやりとした冷たさだ。言葉はつねに、遅れてやって来る。遅れてくるのに、行きすぎる。妖怪ハンター・カネヒラさんもきっと、そうして蓄えてしまった言葉のもたらす過剰に目まいして、サングラスをかけたまま湯気の立つ“ひっつみ汁”を食べるほどにひねくれてしまったのだと共感できる。

遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。
願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。
――柳田國男 『遠野物語』
“ひっつみ汁”とは、鶏肉や山菜を入れただし汁で煮込むすいとんとよく似た岩手県の郷土料理だ。練った小麦粉の生地を団子状ではなく、薄く伸ばして煮込む点がすいとんとの違いになる。古西作『邂逅』に登場するひっつみ汁は文脈的に、そこが遠野であることを暗示している。ネーム段階では、舞台が遠野であることは明示(上掲右図)もされているのだが、言うまでもなくこれは遠野が「あやかしの里」であるという『遠野物語』以来の土地イメージに依っている。
柳田國男『遠野物語』は、日本民俗学の先駆けとしてつとに知られた存在である一方、漫画やアニメなどサブカルの視覚表現へ与えた影響の大きさについては、いまだ正当な評価を受けていないというよりもその多方面での深さから、精確に推し量ることがなお難しい。カッパや天狗、座敷わらしから雪女に至るまで、日本人なら誰もが知る妖怪にまつわる伝承が事細かに綴られたその全容からはさらに、柳田自身が書くように「遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説」のより広範な存在も予感される。
それゆえ『邂逅』に限らず、古西作群がしばしば舞台とするのはこの「遠野よりさらに物深き所」なのだとまずは定義してみる。実際『遠野物語』にみる神隠しや大津波の伝承はこの21世紀の現代社会とも地続きで、たとえば東日本大震災の際には岩手県沿岸を始め東北の被災各地で多くの幽霊目撃談が人々によって囁かれ、赤坂憲雄ら今日の鋭敏な研究者により採録されたのち書籍化や映画化へ至ったケースも少なくない。このとき「さらに物深き所」とは文字通りの山深き森奥でなく、鉄とコンクリートの峡谷たる大都市の路地裏やガード下や地下通路こそが異界の者には最も遠く深き所であったとしても不思議はない。

しからば物を作るとは、如何なることであるか。物を作るとは、物と物の結合を変ずることでなければならない。大工が物を作ると云うのは、物の性質にしたがって、物と物との結合を変ずること、即ち形を変ずることでなければならない。
――西田幾多郎 『善の研究』
「今じゃ人間の真似事をして媚びねば食が手に入らぬ、口惜しや…」と語る『オバケはお菓子がお好き』の主人公タヌキはしかし、人間の文明下にあってもかつて栄えた森を懐かしみながら、家族や猫又などの仲間もおりそれなりに楽しく暮らしているようにみえる。『名前のない宝石』ではエジプトや江戸期の日本と、角人(つのびと)の棲む村とが同じ航路上の寄港地として直に接続されている。
そしてこうしたあやかしの世界と人間社会との地続きの感覚は、『遠野物語』で語られる世界との強い親和性を感じさせる。それは桃太郎やオオカミ人間などとは違って、彼ら異なる者が異なるがゆえに敵対者として立ちはだかったり、その差異を人間たちが恐れたり嘲笑ったりしないからだ。彼らは彼らの風習や事情にしたがってただ穏やかに暮らしており、むしろ人間の側こそが妖怪ハンターや作家を名乗る闖入者となり彼らの世界をざわつかせる。あるいは宅地造成や護岸工事等により、彼らの環境そのものを暴力的に変えてしまう。言うまでもなく、カッパや天狗たちは柳田が発明したのでも遠野だけに発生したのでもなく、古来から日本各地で目撃され噂されてきた怪異たちで、その結晶性と語りの形式が『遠野物語』の強度を成立させてきた。『遠野物語』では、初め柳田の筆を通じ、現地の若者・佐々木喜善の話を聴く体裁のもと読み進むうち、中盤から読者自身が怪異体験の当事者へとなり変わってゆくような感情移入の巧緻が様々に仕掛けられている。本稿の後半ではこの点をめぐる吉本隆明の指摘にも触れるが、当代の文学全般を見渡してもその巧みさには唯一無二のものがある。あたかも自明のものとして人と怪異が共生する古西作品群は『遠野物語』の達成の延長線上で、ごく自然な身振りとしてこれを継いでいる。
ごく自然な身振り、すなわち身体感覚として行える(行っているようにみえる)ことのありがたさ。そのあり難さゆえ古西作の芯はここに潜むと推量する一方で、こう書きつらねると古西作品世界に怪異の登場は不可欠という論旨とも受けとられかねないので、念のため付言しておく。むしろここで大事なのは「読者の暮らす日常とは、ほんとうはどのような場所であるか」をめぐり、ふだん目に触れず意識の暗部へ押しやりがちな世界のリアルをつかの間おもい起こさせる、その異化作用のほうだと言える。たとえば『宮流くんの髪はきれい』では、生贄を求める雨降らしの龍が威容をもって中盤に登場するが、宮流くんの長髪のおよそ信じがたいなめらかさを最大限に強調する引き立て役を龍神が引き受ける構成のコミカルさそのものが、メタに「古西作品世界」的である。この点は、木造アパートへウサギ型の宇宙人が到来し主人公を脅迫するも、主人公とパティシエ青年との出逢いに始まるBL的盛り上がりを無自覚に演出してしまうエンジェル役と化す『月より団子』へも通じる。こうして怪異の存立構造そのものがいじられるのは恐らく、古西当人にとってその共生はあって然るべき現実=自然だからだと考えるなら、もっと大胆にズラされる後続作さえ期待されよう。

僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにたゞ驚きの眼をみはるばかり。而も其の眼からは一挙一動宗教的感念に支配されてゐた昔の人の美しい魂の輝きは失はれて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おゝ亡びゆくもの……それは今の私たちの名、何といふ悲しい名前を私たちは持ってゐるのでせう。
――知里幸惠 『アイヌ神謡集』
ところで話は大きく戻る。冒頭の十代における自分語りにはつづきがあって同じ頃、ひとり無地のノートへひたすら書き殴っていた。学校の国語や図工の授業で作文や絵の課題が出されても書けなかったし、描けなくなっていた一方で、際限なく湧き出るが御しきれない想念をぶつけるように、寡黙に字と絵で埋めつづけていた。部員1名の美術部長だったが伝統校の古い美術部室に篭り、確とした目的もなく白紙の荒野を次から次へインクや鉛筆で埋めていくことだけは、不思議とできていた。やがてあるとき、赤ん坊の泣き声を聴くようになった。授業中で誰もいないはずの隣の部室や天井の角や排水溝の奥から、それは聴こえる。自分しかいない部屋じゅうに、それは響く。泣き声が止んだ頃、気づけばこのわたしは、このわたしたちになっていた。この心など映り込む光や風が片時みせるまやかしで、まやかしはあやかしの一変奏に実は過ぎない。
『遠野物語』における語りの形式に着目した吉本隆明は、柳田による明治43年の公刊時まだ健在であった漱石や鴎外、鏡花や谷崎らの文学とは一線を画し、かたや今昔物語や宇治拾遺物語など説話物とも異なる本書の特徴を、その“中間性”に見いだしている。わかりやすく簡略化すれば、語り手である「吾輩」と書き手である漱石との峻別が前提となる小説群や、冒頭で「今は昔」などと区別が設定化される説話群と異なり、『遠野物語』で書き手はしばしば語り手へ陥入する。
吉本による「中間性」言及の白眉は、ここから『遠野物語』の孕む時間軸が平安期の今昔物語や鎌倉期の宇治拾遺を突き抜け、古事記にもつらなる古層へと連続する痕跡を探る手つきにある。一方で、その神話的とも言える時間性の類例としてアイヌの世界観を挙げ、口頭伝承の採録である点をアイヌ神謡との共通点として指摘する。そこでは語り手が憑依するとも言え、これが容易に起こる形式という点ではチベットの『ケサル』やモンゴルの『ジャンガル』、キルギスの『マナス』など超大河級の叙事詩群を諳んじるシャーマニスティックな語り部たちも想起され、つまりは今後の古西作品が想像力の源泉とする沃野の底土にはこの雄大さが安らい、息を潜めて謡いだす刻を待っている。『ゴールデンカムイ』はアイヌの世界観と近代国家日本の宿痾とを結びつけ、樺太を越えアムール川を渡る大陸規模のスペクタクルを描き切った傑作漫画だが、したがってすでに獲得された潜勢力により構造的に、古西作はいずれ『ゴールデンカムイ』を超えられる。

「あにうえをかえせ!!」
『かたわれ』の主人公少女が怒り、叫ぶ。やり場のない怒りを、石屋が受けとめる。砕かれた石をただ継ぎ直すのでは元の兄とは言えないからと、手にした一つの岩から彫り直す。魂は一体に宿るという古代中世の一木信仰にも似たこの描写は、『名前のない宝石』のネーム段階で語られる“角(ツノ)に結晶する宝石”と魂の関係をも想起させる。ネーム段階で消えてしまう描写に古西作品世界の相貌が覗くケースは、他にも処々散見される。プロを目指すどの漫画描きにとっても至難の壁として立ちはだかる、作品を商品流通の俎上へ載せる努力とのせめぎ合いをめぐる一面が、古西作においてはこういう仕方で顕れるということかもしれない。当人の爪こそが異なる者の訪れを形式的に担い、主人公を導き出逢いをもたらす『指先に魔法を』はこの意味で、今後の古西作品が進み得る方向性のひとつを魅力的に仄めかしている。このときツノはツメとなる。
そもそも『かたわれ』自体が、ネームで留まり完成稿は提出されていない。しかし極私的には最も好みで、かつ完成度の高いまさに古西作品世界の核から分泌された結晶のようにさえ感じられる。ひらめき☆マンガ教室第8期の最終課題作で古西は、同期提出作中で二番目に長く44ページにも及ぶネーム『魔法少女の相棒』を描いたあと、1ヶ月後に〆切が来る完成稿ではこのスピンアウトとして8ページの掌編を提出した。その半月後には、同じく『魔法少女の相棒』のスピンアウトに当たる別の10ページ掌編を教室の公式ブログへ投稿している。ネームと完成稿で全く異なる内容を提出することについては過去に講師から苦言が呈される場面もあったが、その飛躍を寿ぐ場面もまたあった。物理時間の制約のもと、一課題につき二度の提出機会がある教室のシステムを、おのが作品世界の拡充のため最も有効と目す仕方でハックする身振りとも言える古西が今回採った選択は、最終課題提出23作中でも彼女だけの軌跡を描く。その決断にこそ、いずれ描かれる新たな1ページへと至る、古西に固有の着実な一歩の足音を聴く。
三島由紀夫は現代小説に感激することが減ったと書いたあと、なお希求する小説の豊穣を『遠野物語』こそに見てこう書き記す。「柳田氏の聴書が、かくもみごとな小説たり得ているのは、氏の言語表現力の一種魔的な強さ、その凝縮力、平たくいえば文章の力のために他ならない」。中沢新一はこの言語表現の魔的な強さの根に、土地と生命の水準で結びついて抽象化されることのない、生きられた時間の息吹を読みとる。ごく自然な仕草として客の注文をとり、玄関先でお菓子を要求するあやかしたちを描く古西作品は、その豊穣をすでに内包し得ている。ここに萌芽しつつある境地をどうか失わず表現と伝達をめぐる諸技術を研ぎ澄ませ、このまま読者の裾野を広げてくれたらと願わずにいられない。
ひとは災いそのものだ。この世界を最も傷めつけているのは人間だ。そして紛れもなく、わたしたちは人間だ。だからせめて、鎮魂の願いを丹念に彫り込むのだ。祈るように日々描くのだ。
【古西作品出典】
『邂逅』https://hirameki.genron.co.jp/issues/task2025/task1/257/manga/
『オバケはお菓子がお好き』https://www.pixiv.net/artworks/116656242#1
『名前のない宝石』https://hirameki.genron.co.jp/issues/task2025/task2/257/manga/
『宮流くんの髪はきれい』https://www.pixiv.net/artworks/118351469
『月より団子』https://www.pixiv.net/artworks/125215697#1
『指先に魔法を』https://www.pixiv.net/artworks/119026220
『かたわれ』https://hirameki.genron.co.jp/issues/task2025/task4/257/manga/
『魔法少女の相棒』ネーム/おまけ① https://hirameki.genron.co.jp/issues/task2025/task9/257/manga/
『魔法少女の相棒』おまけ② https://hirameki.genron.co.jp/portfolio/46693/
【引用出典】
柳田國男 『遠野物語』 岩波文庫
西田幾多郎 『善の研究』 岩波文庫
知里幸惠 『アイヌ神謡集』 岩波文庫
【参考文献】
柳田國男 『遠野物語』 新潮文庫(山本健吉解説、吉本隆明、三島由紀夫寄稿)
柳田國男 『遠野物語』 角川文庫(折口信夫、大藤時彦、鶴見太郎解説)
柳田國男 『遠野物語』 集英社文庫(長谷川政春解説、中沢新一、小田切進寄稿)
