
「困ってます」「モヤモヤしてます」をいったん出す、が、腑に落ちるまで――第2回静脈先生回授業感想
こんにちは! ひらめき☆マンガ教室第9期聴講生のセミオです。
ひら☆マン9期、第2回授業が終わってから、1週間強経ちました。
…1週間強?
……ってことは、今週末、、ワ、ワークショップ……? えっ、えーっ! ハハハハ、時が、、過ぎていく、、ハハハ、、、
例によって、スケジュール平常運転パンパカパンで生きておりますが、きょうも前回の授業の感想を! 書いていきたいと思います。
さて、前回の授業で、ひとつ、ずっと、ぐるぐる考えていたことがあります。きょうはそのことについて。
どんなふうに、ぐるぐる考えていたか。
初回授業から何度も違う形で見聞きしていたことが、第2回の講義を受けたあと、なんども頭の中に現れては消えるのを繰り返し、そうやって反芻していっていくうちに、自分のなかでだんだん別のこととつながってきた……という感じです。
熟成タイプの考えです。(何を言っている)
閑話休題。
まずは初回授業の話を少しさせてください。さやわか先生が「ネーム模写」について説明していたとき、こんなお話がありました。
そもそも模写には種類がありそれぞれにやる理由がある。(中略)メソッドよりも理由がまず大事。理由さえしっかりしてればオリジナルな手法であってすら、別によい
ネーム模写は、マンガがうまくなるのでやるべき。なんだけど、「とにかくネーム模写をやればマンガがうまくなる!」と、だけ、覚えて帰るんじゃあないよと。
その例としてさやわか先生は、「大井昌和先生はネーム模写をやらない」というお話を例に挙げられていました。
大井先生は、ネーム模写をやらない。
その代わりに、『MASTERキートン』を、「1本1本の線が何を意味しているか」を考えながら、1コマ10分くらいかけて読む、という修行をされていたそう。
この話で重要なのは、「ネーム模写というメソッドのほかに、マンガを1コマ10分かけて読むというメソッドもあるよ。好きな方を選んでね」という話ではもちろんなく、ネーム模写をやらないならやらなくてもいいけど、ネーム模写を通して叶えたかった目標を達成するための、別のメソッドを自分で考えてやりましょう、ということです。
そして、ネーム模写をやるのであれば、なぜそれをやるのか。自分は何を得たくて、そのメソッドを使うのか。それを、やる前に考える(ゴールから逆算する)。やりながら考える(意識する)。やった後も考える(振り返る)。
そういうふうにして、「メソッドの理由を考える習慣をつけましょう」というのが、一年間を通して受講生に求められるスタンスなのかな、と、ぼくは理解しています。
「完成稿をネームから大きく変えてはいけない」は「ルール」なのか
それで、第2回。ネーム講評のなかで、ある受講生からこんな質問が出ました。
ざっくりまとめると。
前回、さやわか先生から「ネームからペン入れするときに、あまり変えないでほしい」とご指摘を受けました。そこで課題1の完成稿は、ネームからほとんど変えずに完成させました。でも今回課題2では、完成稿にするときに画面の凹凸やメリハリをつけることを前提に、少し下書きに近いネームを描いてみたんですが、そもそも、ネームって、どこまで描けばいいんでしょう。※すごくざっくり
早合点なぼくなら、さやわか先生からこのようなご指摘を受けたら、「なるほど。では、ネームからあまり変えてはいけない、というルールなんですね」とスイッと理解したくなっちゃいます。
でも、そこでさやわか先生はこのようにお答えになりました。これもざっくり。
さやわか先生は、ひらめき☆マンガ教室で何か言うときには、たとえば「ネームからあまり変えないでほしい」と言うときにも、「その理由を必ず説明しているはず」としたうえで、「そっち(その指摘の理由)の方が大事で、それを守りましょうという話なんですよ」とおっしゃっていました。
あ。初回に聞いた、「メソッドより理由」のやーつだ。
一緒に講義を聞いていたセミオは思いました。
自分なら、ルールやメソッドをそのまま飲み込んじゃったほうが、自分で判断しなくて済むから楽しちゃうと思うんです。
けど、質問者の受講生の方は、実際に言われたとおり課題1をやってみた。そのうえで、次の課題をやろうとしたときに「じゃあ、これはどう考えればいいんだ?」とわからなくなって、そのまま質問した。
受講生の方が質問したから、さやわか先生が伝えた「指摘」の意図を説明する機会が生まれた。それを聞いた自分は、ああ、これもメソッドより理由の話なんだ、と気づけた。
言われたことを、まずやってみる。やってみて、わからなくなったら聞く。聞いたら、なぜそうするのかがまた少しわかる。
これを繰り返すのがひら☆マンだ~、そうだったそうだった~と、勝手に懐かしくなり、気持ちがホクホクしました。
ちなみに、メソッドより理由が大事だからといって、講師から受けた指摘を全部いったん疑って、自分のなかで完全に納得するまで一歩も動いちゃいけない、という話ではないなと思ってます。
たしかこの質疑応答のあとだったと思うのですが、さやわか先生も、理由についてあまりに考えすぎると、だんだんおかしくなっていく、というようなことをおっしゃっていました。
何事も塩梅ですね……!
100点じゃない、良くないネームを出す
そして今回、もうひとつ、これとつながって聞こえた話がありました。
静脈先生が、ご自身のマンガの描き方について話されていたときのことです。
静脈先生は「ひら☆マンの教え」として、「とりあえず完成させる」「ひとまず完成させよう」ということがある、とおっしゃっていました。
完成度を上げることはもちろん大事。でも、まず「ここまではやるぞ」「編集者さんに見せるぞ」と決めて、そこまでできたらいったん出す。
すると、「反応良くないな、ダメだったんだ、やっぱり」と思うときもあれば、「意外といけたな」と思うときもある。そういうことを繰り返してきた、と。
それを受けて大井先生も、「良くないネームを出せる」ことが大事だとおっしゃっていました。
要は自分の中で100点満点まで出さないと、って言ってたら無理じゃん
ここで、ぼくのなかで「理由を考える」と「ひとまずやってみる」が、ようやく同時に置けるようになりました。
これをやってみようと言われたら、その理由は考える。でも、自分のなかで100点の答えができるまで考えて、それからようやく人に見せる、ということではない。
まずやってみる。出してみる。そうしたら、何かが返ってくる。その返ってきたものまで含めて、また考える。
ひら☆マンで「完成させる」が何度も言われているのは、たぶん、この「返ってくる」までサッサと行くためなのかな~~~~と思いました。
扉絵には「宗派」がある?
じゃあ、実際、出してみると、何が返ってくるのか。
「ああやっぱひら☆マンの講評っておもしろいな」と思った場面の話をします。
たかみねさんの『三輪さんのめがね』という課題2ネームへの講評です。この作品には、1ページ目に扉絵があります。
そこで大井先生が、「扉絵は宗派があるんで」とおっしゃった。
シューハ……?
大井先生のお話では、次の次の講義でご登壇なさる師走の翁先生は、「扉絵は無駄」として1ページ目から本編を始める派。一方、大井先生は「扉あったほうがいい派」とのこと。
さらに濱田轟天先生が、「僕は扉は2ページ目に入れる派なんですよ」と入ってきた。
また別シューハだ。
大井先生は扉あり派。
師走の翁先生は扉なし派。
濱田先生は、まず1ページ目で物語を始めて、めくった2ページ目で扉を見せる派。
さらに静脈先生は、ご自身がネーム原作を描くときには「こちらから扉は指定したこと一度もない」としつつ、「あっても全然いい」とおっしゃっていました。
なるほど。ひとによって全然おっしゃることが違う。
大井先生は、扉を入れるなら、学園ものだとわかる背景を入れるなどして「扉の機能を最大限使ったほうがいい」と説明する。
濱田先生は、1ページ目でまず読者を引っかけてから、めくりで一枚絵を見せれば、世界観の説明にもなると話す。
このあとも、媒体によって扉の役割は変わるとか、キャラクターをもっと好きになってもらうために使うこともできるとか、それぞれの方からいろんな「なぜ自分はそうするのか」のお話が出てきました。
そこで大井先生がおっしゃっていた、
このいろんな考え方でどれを選択するかっていうのが、作家さんの個性とかになってくる
という言葉も印象に残っています。
「扉絵は入れましょう」でもない。「扉絵はいりません」でもない。
いったん描いて、出す。すると、講評する人によって違うものが返ってくる。でも、それぞれには理由がある。それを聞いたうえで、次に自分がどうするか、また考える。
ひら☆マンで講評を見るおもしろさって、登壇者によるこの掛け合いだなあ、と思いました。
そして、これ、マンガ以外でも使える話なんじゃないか……? という、いつもの感じが、講義のあともぼんやり残りました。
そんな状態で1週間くらい経って、きのうくらいに、あれ。これ、最近自分にもあったことと似てるかも……? と思いました。
いつものように、マンガとは全然関係ない話なんですが……。
「困っています」を、完成させずに出してみた
少し前、仕事で困ったことがありました。スンゴイぼかして書くのを許してください。
ぼくには、毎朝決められた時間までにやるよう指示されている仕事がありました。
ある日、その指示どおりに仕事を進めたところ、それとは別の事情から「なぜ今それをやったのか」「空気を読め」と、結構な剣幕で怒られてしまいました。
もちろんその場で必死に謝って、その場は終わりました。でもそのあとずっと、自分のなかにモヤモヤが残りました。
ぽわわわわん……。
やるように言われたことを、言われた時間までにやった。でも、それで怒られた。だったら次からどうすればいいんだろう? 空気を読めと言われても、時間が決められている以上、その時間をずらすわけにはいかないジャン……? 時間は時間だし……。
当時のぼくは、こういうことを誰かに相談するときにも、自分なりの「答え」をつくってから持っていかなければならないと思っていました。
「今度から、こうしてください」
「このルールを変えてください」
「じゃあ私は、今度からこうします」
みたいな。
ほらよく言うじゃないですか。「批判するなら代替案を出せ」と。
その言葉を真に受けて考えているワタクシことセミオですんで、「怒られた」→「モヤモヤする」→「でも自分には代替案がない」→「じゃあ黙っていよう」となっていました。
この話をある人に相談したところ、その人から提案されたのが、「今後どうしたらいいか困っています」と、そのまま伝えればいいよ、ということでした。
当時のぼくには、これがけっこう意外でした。
「困っています」だけで、人に出していいんだ。(情操教育〜)
というわけで、ぼくに怒ってきた方に後日、自分から「すみません、ちょっと先日の件で私困ってまして……ああいうふうにおっしゃられてしまっては……、今後どうしたらいいか困っています」と話を持っていってみました。
そしたら、その人から「あのときあそこまで君に怒ることはなかったですね、申し訳なかったです」と言われました。そのあと、その人は、あの日その人が置かれていた状況や、そのとき考えていたことを話してくれました。
それを聞いているうちに、自分の気持ちがすーっと楽になっていったのを覚えています。
いや、別に、自分はその人に謝ってほしかったわけじゃないんです。「なんであんな剣幕で怒られなきゃいけないんですか!」と詰めに行ったわけでもない。
自分が出したのは、もっと未完成なものでした。「ぼくには、あの出来事がこう見えました。で、今、困っています」
そうしたら、今度は相手から、「自分には、あの日こう見えていた」という、ぼくには見えていなかった情報が返ってきた。
なるほど、自分があなただったら、そうなるかもしれないですね。そうか。それでも自分はあんなに怒られたことは嫌だったから、嫌だったって思っていていいけど、相手がそうなった理由は理解できなくもない。
そういうふうに、少しずつ、自分の問題と相手の問題とが、頭のなかが整理されていきました。
結局、この話し合いでは「じゃあ次回からぼくはこうすればいい」という100点の解決策までは出ませんでしたが、それでよかったと自分としては思っています。
ぼく一人で「正解」を完成させてから相談しなくても、「困っています」というところまでをいったん外に出せば、相手から自分の持っていなかったものが返ってくる。
そうすると、ようやく二人で「じゃあどうしよう」を考えられる。
その場を持つことができた。
そして、そういうふうにいったん自分の外に出せば、前に進めるんだと気づけただけでよかった。
ひら☆マンで見てきたものが、ぼくの実生活のなかでようやくつながりました。
いったん出す。それから、また考える
「メソッドより理由」と言われると、ぼくはつい、「では、自分で理由をちゃんと考えて、正しい答えを出さなければ」と思ってしまいます。
でも、ひら☆マンはそうじゃない。
まず完成させて、出す。言われたことをやってみる。わからなくなったら質問する。
そうすると、こんな講評・感想が返ってくる。
「扉はあったほうがいい」
「いや、なくてもいい」
「2ページ目に置いたら?」
「そもそも、なぜ扉を置くの?」
そういう、自分一人では持てなかった材料が増えていく。その材料を使って、また理由を考える。
「こうしてください」という答えまでつくれなかったから黙る、ではなく、「ぼくは今、困っています」と、いったん外に出す。
すると相手からも何かが返ってきて、そこから初めて、一緒に考えることができる。
今回、第2回の授業を見てぼくが持って帰ってきたのは、そんなことでした。
自分の中で100点になるまで抱えていなくてもいい。
いったん出す。
返ってきたものを見て、また考える。
ひら☆マンは人生に役立つありがてえ教室だ~と、再び、思ったのでした。では!
