【聴講コース受講生から】ひらマン第7期スタート!「課題1」全ネームへのコメントを終えて……。
ひらマン7期「課題1」全ネームへ感想コメントを付けてみた
こんにちは。「ひらめき☆マンガ教室」第7期で聴講コースを受講している春心(しゅんしん)です。普段は本名でサラリーマンをしていますが、マンガを読むのが好きで、受講を決めました。最近読んで感動したマンガは、高屋奈月の「フルーツバスケット」(全23巻)です。
このたび、「課題1」の全ネームにコメントしました。
課題というのを受講生以外の方向けに簡単に言うと、「ひらめき☆マンガ教室」でマンガを描くコース(「ひらめき制作コース」および「制作コース」)を受講しているひとが定期的に提出を求められている作品のことです(僕はマンガを描かない「聴講コース」)。今回は完成原稿の前段階=ネームの提出が求められていた。課題作品とコメントは以下のリンク先で見ることができます。
皆様、たいへんお疲れ様でした。完成原稿も楽しみにしております。
制作する側はもちろん大変ですが、聴講生としてひとつひとつに対して感想やコメントを考えるだけでも意外と大変です。
とくに凝ったことをコメントするわけでもないし、それが求められているわけでもない。ですが、たとえば改善点の提案やわかりづらいポイントの指摘などは、あまりに沢山書いてしまうと、制作の負担になってしまうかもしれない。制作側のひとたちは、限られた時間のなかで考えて作品を仕上げているはずなので、そこを尊重した上で感想を書いた方が、たぶん良いだろう。と、まあ、気を配るポイントがいくつかあるなと。
いや、ハードルを上げたいわけじゃない。僕だって基本的に気楽にコメントをしています。さっと一言コメントするだけで全然OKだと思うのですが……。まあ、突き詰めれば性格ですね(笑。
ひらマンという場所、ひらマン+という空間
「ひらめき☆マンガ教室」では、主任講師のさやわか先生と、ゲスト講師(今回は「メタモルフォーゼの縁側」の鶴谷香央里さん!)が作品を講評するだけでなく、時に受講生も壇上に上がって質疑応答を求められます。ネームへのコメントを終えて、マンガに対する感想を書くことの大変さをあらためて感じたいま、壇上で当意即妙のアドバイスを連発していた主任講師のさやわかさんへのリスペクトがいっそう増すことになったのはもちろんのこと、作り手の皆さんへの敬意も新たにしました。
それにしても、ネームというものをこれだけまとまった数で読むというのは全く未知の体験で、とてもスリリングというか、ドキドキしました。時にTwitter(現・X)で作者の既発表作品をチラリと読んで「あのネームがこういう風になるのか!」「しかも、講義を経てパワーアップした形で?!」と、ワクワクすることも多かった。沢山のネームが読めて、ゆくゆくは完成原稿も読めて、その間にどんな試行錯誤があったのかを想像し、考えることができる。ひらマンプラスというサイトの面白さも、段々わかってきたような気がします。受講生以外の方も、ぜひこの機会にサイトを覗いてみてはいかがでしょうか。
……なんだか太鼓持ちみたいな書き振りになってしまいましたが……(笑。
作品を読み、講評を見聞きして思ったこと
今回の課題は「自己紹介を物語として描く」。
聴講生として、「どんな作品が出てくるのだろう」とワクワクしながら待っていました。出揃ったネームたちを粛々と読んでいて、広く言って分身のモチーフ、あるいは自分との対話みたいな話が多いことを、とても面白いと感じました。もっと所謂「エッセイマンガ」然としたものが沢山出てくるのかなと思っていたので、すこし意外です。
課題が「自己紹介」だったのに加えて、それを物語に仕立ててほしいというオーダーから導かれた、ひとつの方法だったのかなと、僕はとても興味深く読みました。他方で、SFっぽいものも何作かありますし、各作者のカラーみたいなものがこれから出てくると思うと楽しみです。それに、感想を書くにあたって何度も読み返したので、各作品に愛着が湧きましたね。
講評会でもたびたび指摘されていた「モノローグの多さ」についても、非常に考えさせられるものがありました。提出された作品の多くはモノローグを使っていて、作品によってはかなりのウェイトを占めていました。けれども、講評会では、主人公の心情や状況説明をモノローグで処理するのは、便利だからこそ濫用は避けるべき、と言われていました。絵で語るべきである、ということでしょうか。
モノローグの問題
ここで、モノローグの問題を、僕なりの言葉で整理してみます。
モノの描写で考えるとわかりやすい話だと思います。たとえば、一般的な一人称小説では、モノローグで「テーブルの上には花が飾られていた」と書いてしまえば、それだけでその小説の中では【テーブルの上に花が飾られている】ことになる。でも、そういうことをマンガでやることはできない。【テーブルの上に花が飾られている】ことにしたいのなら、実際にテーブルを描き、花を描く必要があるでしょう。何なら、具体的にどんなテーブルや花を描くか、(何となくであっても)いくぶん具体的に決めなければならない。
心理描写になると、もう少し込み入ってくるはずです。マンガでも「俺は悲しかった」とモノローグで(四角い吹き出しとか?)書いて、主人公の悲しそうな顔のアップなどを同じコマに描けば、さしあたり表現として成立しているように見えるでしょう。でも、主人公の顔がじゅうぶんに悲しそうに描けていれば、モノローグは余計かもしれませんよね。とはいえ今度は、描いた表情が【悲しい】のか、それとも【寂しい】のか、などと思ってしまう。そこを厳密に確定させたいから、モノローグを使う……という場合もあるかもしれません。そうなると今度は、【悲しい表情】と、【寂しい】表情の「描き分け」の問題も出てくる。……いや、僕には手に負えない話に踏みこんでしまった気がするので、このあたりで止めておきます(笑。
モノローグの問題は、「マンガ的」と言われる表現がいったいどのようなことを指しているのか、そこにはどんな誤解があるかという問題につながるようにも思います。類型化された、リアルというよりもフィクション然とした性格描写をもって「マンガ的」だとか「マンガっぽい」などということが、たとえばある種の小説にむけて、ときに揶揄をこめて、言われることがあります。マンガの性格描写は単純であり、類型的で、作り物じみていて、リアルではない、と思われている。
でも、本当にそうでしょうか? マンガではモノローグを多用せず、言葉で説明するのを避ける傾向にあるから、そう思いこんでいるだけではないのでしょうか。マンガでは、小説などでモノローグが担うべき役割の多くを、絵や画面が担っているのではないか。だとするならば、僕たちはもっと、絵や画面によって語られている性格・キャラというものを、意識すべきなのかもしれません。
長くなりましたが、講義・講評会を受けてそのようなことを考えました。
コメントを付けるときに気をつけたこと
今回、各作品に対し、敢えてフォーカスを絞り切らず全体的な印象を中心にコメントしました。また、こんなことをバラす必要はないと思いますが、基本的に「応援する」姿勢で書くことを心がけたつもりです。というか、ものを作っている人は応援するのが僕の信条なので。
とはいえ、なるべく具体的な点を挙げながら、僕なりに感じた違和感や改善案は指摘したつもりです。作者の皆さんの役に少しでもたてば幸いです。また、僕の意見と全然違う意見をお持ちの方も当然いらっしゃると思いますので、ドンドンそれを書いていただければとても嬉しいです。
次からはもう少しフォーカスを絞った書き方にしようかと思っています。具体的には、前回の講義内容を踏まえたコメント作りにしたいな、と。今後のカリキュラムには、「マンガの読み方・評し方講座」もあるとのことなので、それに関しても頑張って吸収していきたい。「頑張る」とは言っても、漫画を読む楽しさ、みたいな思いはちゃんと持った上で、義務感を中心に据えることなく、楽しんでコメントを書いていければいいなと思います。