女は男を何度も河口に蹴り落とす。ただそれだけの漫画。
読者層としては、日常の繰り返しに漠然と疲れている、少し教養に関心のある人を想定した(新書も読むし漫画も読むような、読書家とまでは言えないカジュアルな読者層)。
冒頭、『旧約聖書』「コヘレトの言葉」から引用(フランシスコ会訳)。この漫画のテーマである「繰り返し」を最初にはっきりと表明している。
2頁目、女は自分の手を見つめる。彼女の罪、彼女が自身の罪を自覚していることを暗示している。『映画史』でゴダールが「汚れた手(サルトル)」とつぶやきながら自分の手を眺める描写を思い出しつつ描いた。
3頁目、缶入り柿の種のモデルは元祖浪花屋の柿の種。実際は缶に直接入っているのではなく、密閉可能な袋に入った状態で缶に入っているが、ここは見た目とストーリー展開上、直接入っているように描いた。なぜ柿の種なのかと言えば、第一に最終頁の「…しょっぱい」につなげるためにしょっぱい菓子が必要だった、第二に次頁のホスティア(ミサで司祭が信徒に渡す聖体)のパロディとして小さめの菓子が好都合だったことによる。
男は見た目がレーニン風だが、直接関係はない。ただ、かつてあったレーニンを一種のキリストと見なす風潮に対するパロディとしての面はある。
4頁目、男は「これを取って食べなさい」と柿の種を差し出す。この台詞はカトリックのミサの奉献文からの引用で、イエスが最後の晩餐で弟子に言った言葉に由来する。男の「はじめて会った気がしない」に女がニヤッとするのは、女の方は男を何度も蹴り落としているのを知っているから。男がイエスを象徴しているとすれば、女が男を蹴り落とすのは救いの拒絶を意味している。だが男は何度も拒絶する女の元に現れ、柿の種を差し出すだろう。しつこい。
5頁目、女の告白は次頁の殺人の予告でもある(勿論この段階では男も読者も分からない)。女はここでは嘘をついていない。前頁の「知らない人」は嘘である(何度も殺しているのだから)。ちなみに1コマ目の「ふさわしい者じゃない」もミサの典礼文からの引用。勿論男はイエスを象徴しているので、女が人殺しだからと言って関わるのをやめることはない(少し動揺しただけだ――缶を降ろす動作で表現した)。
6頁目、殺人の実行。ところで女はなぜ男を河口に蹴り落とすのか。作者としては、河口は流れが複雑なので助からないだろうと考えた。女はそこまで考えていない。自分ではやめられないようだ。
7頁目、ここで殺人が繰り返されていることがはっきりする。単なるn回ではなくべき乗にしたのは、繰り返しを強調するため。
8頁目。「…しょっぱい」はまずもって柿の種のことだが、海水や彼女自身の涙をも含む。彼女自身、今の状態を望んではいない。だがどうしていいのか分からない。われわれの生も似たものではないだろうか(少なくとも私はそうだ)。
カラーについて。作品上必要だと考え、カラーにした。川を緑ががった青、海をより濃い青にしたことで、河口での両者の交じり合いが分かりやすいかと考えた(逆にモノクロではどう表現していいのか分からない))。
偉そうなことをつらつら書いてしまいましたが、ネタが何も思い浮かばず「白馬大池にて」(https://hirameki.genron.co.jp/portfolio/6693/)のセルフパロディのような作品になってしまいました(ちなみに男は「白馬大池にて」に出てきた男と同じです)。
お読みいただきありがとうございます。
女は男を何度も河口に蹴り落とす。ただそれだけの漫画。
読者層としては、日常の繰り返しに漠然と疲れている、少し教養に関心のある人を想定した(新書も読むし漫画も読むような、読書家とまでは言えないカジュアルな読者層)。
冒頭、『旧約聖書』「コヘレトの言葉」から引用(フランシスコ会訳)。この漫画のテーマである「繰り返し」を最初にはっきりと表明している。
2頁目、女は自分の手を見つめる。彼女の罪、彼女が自身の罪を自覚していることを暗示している。『映画史』でゴダールが「汚れた手(サルトル)」とつぶやきながら自分の手を眺める描写を思い出しつつ描いた。
3頁目、缶入り柿の種のモデルは元祖浪花屋の柿の種。実際は缶に直接入っているのではなく、密閉可能な袋に入った状態で缶に入っているが、ここは見た目とストーリー展開上、直接入っているように描いた。なぜ柿の種なのかと言えば、第一に最終頁の「…しょっぱい」につなげるためにしょっぱい菓子が必要だった、第二に次頁のホスティア(ミサで司祭が信徒に渡す聖体)のパロディとして小さめの菓子が好都合だったことによる。
男は見た目がレーニン風だが、直接関係はない。ただ、かつてあったレーニンを一種のキリストと見なす風潮に対するパロディとしての面はある。
4頁目、男は「これを取って食べなさい」と柿の種を差し出す。この台詞はカトリックのミサの奉献文からの引用で、イエスが最後の晩餐で弟子に言った言葉に由来する。男の「はじめて会った気がしない」に女がニヤッとするのは、女の方は男を何度も蹴り落としているのを知っているから。男がイエスを象徴しているとすれば、女が男を蹴り落とすのは救いの拒絶を意味している。だが男は何度も拒絶する女の元に現れ、柿の種を差し出すだろう。しつこい。
5頁目、女の告白は次頁の殺人の予告でもある(勿論この段階では男も読者も分からない)。女はここでは嘘をついていない。前頁の「知らない人」は嘘である(何度も殺しているのだから)。ちなみに1コマ目の「ふさわしい者じゃない」もミサの典礼文からの引用。勿論男はイエスを象徴しているので、女が人殺しだからと言って関わるのをやめることはない(少し動揺しただけだ――缶を降ろす動作で表現した)。
6頁目、殺人の実行。ところで女はなぜ男を河口に蹴り落とすのか。作者としては、河口は流れが複雑なので助からないだろうと考えた。女はそこまで考えていない。自分ではやめられないようだ。
7頁目、ここで殺人が繰り返されていることがはっきりする。単なるn回ではなくべき乗にしたのは、繰り返しを強調するため。
8頁目。「…しょっぱい」はまずもって柿の種のことだが、海水や彼女自身の涙をも含む。彼女自身、今の状態を望んではいない。だがどうしていいのか分からない。われわれの生も似たものではないだろうか(少なくとも私はそうだ)。
カラーについて。作品上必要だと考え、カラーにした。川を緑ががった青、海をより濃い青にしたことで、河口での両者の交じり合いが分かりやすいかと考えた(逆にモノクロではどう表現していいのか分からない))。
偉そうなことをつらつら書いてしまいましたが、ネタが何も思い浮かばず「白馬大池にて」(https://hirameki.genron.co.jp/portfolio/6693/)のセルフパロディのような作品になってしまいました(ちなみに男は「白馬大池にて」に出てきた男と同じです)。
お読みいただきありがとうございます。