藤原ハルさんの『1/720の初恋』感想
今月から投稿コースに参入したniche regionです
まだまだ皆様の作品をすべてよむことができていないのですが、
何事もまずは一歩ということで、ガツンと衝撃を受けた藤原ハルさんの『1/720の初恋』について感想を書かせていただきます
物語は2人の少年少女のBoy meets Girl
転校早々人気者となる吉田さん
粘菌の世界にどっぷりつかっている森くん
そんな教室内でもっとも距離のある場所にいたような2人を描いています
まず読んでいて印象的だった場面を挙げていきます
1ページ目の遠目に描かれた
学校と粘菌の世界に吸い込まれるように図鑑を見つめる森くんの対比
物語のフィールドがはっきりわかり、森くんのイメージもしっかり固まるのでとても印象的な導入でした
転校生登場でざわめく教室
この場面もいかにもな感じでわかりやすかったです
転校早々女子達に囲まれる吉田さんのコマでは
取り囲む女子達がぼやかされ吉田さんは特別なんだぞ感がヒシヒシ伝わってきます
また後半のクラス内でどうやらメイン的なキャラである圭太が吉田さんに告白するシーンからは
テンポが速くなり緊張感も相まって読者を没入させる力を感じました
いやー、というわけで全体的に本当に意味が取りやすく、非常にはっきり物語が表現されているので想像が走ります
以下そんな想像を巡らせた領域について話させてください
まず1点目
森くんが粘菌に惹かれているのはなにか物語があるのでしょうか?
そしてそれは吉田さんに魅せられたことにつながるのでしょうか?
想像を掘り下げるため、少し物語の核である粘菌について調べてみました
図鑑などを読むと粘菌はかなりふしぎな生き物のようです
ざっくり特徴をまとめると
- 単細胞生物だけど時に集団となり、大きな個体のように振る舞う (細菌でもなく、キノコのような菌でもない、アメーバみたいなものとされているらしい)
- 動物的に動き回ることができるが(変形体という時期)、一方でキノコのように胞子で増える(子実体という時期)
確かに調べれば調べるほど不思議でよくわからない生物です
そして何より、ネットに転がる粘菌(子実体)の写真は驚くほどきれいで幻想的…
森くんが入れ込むのもわからなくない…
さらに粘菌を掘り下げるにあたって、作中でもKeyとなりTitleにもある、”720の性”について深く考えねばならないでしょう
この性別問題を調べてみると、どうやら720というのは粘菌の1種であるモジホコリ(埃なんですかね??)におけるお話のようです
”720種の性”
全く想像できないし、調べても理解できているかかなり謎ですが、
身近な人間の性を出発点に考えると朧気ながら理解できたような気がします
人間の場合、少なくとも生物学的な性は2種で1パターンでしか生殖は現状不可能です(マウスでは最近ips細胞を介して雄同士で生殖できたようで、将来的には人間のパターンも変化するのかも知れません)
そんな男だとか女だとかのカテゴリーがモジホコリは720種あります
そのことは719種が異性になることを意味します
つまりなんと、719パターンの生殖が可能なようなのです
そう考えると、むしろ粘菌の生殖はなんでもありだなあ感が出て、
この物語の意味合いとは真逆のニュアンスになってしまいます
したがって、ここではむしろモジホコリにとって同性に出会うのは720分1という途方もないレアなイベントなんだ!
という点に着目した方がいいのかもしれません
いずれにしても、こうしたにわか掘り下げが混乱を巻き起こすように、
粘菌自体がかなりややこしい存在の様です
実際、専門書の説明を読んでもかなりわかりにくく、
踏み込んで説明するには厄介なものです
それを踏まえるとある程度象徴的な存在として扱った藤原さんの描き方が確かに無難なのかもしれません
結局人間の2分の1ではなく720分の1というレアさが
作品を取り巻く森くん自身や吉田さんとの出会いのレアさにかけられている
そう解釈すべきなのかもしれません
そこまで思考して、レアさこそこの物語を通底するものではないかと思い至ると、
では720分の1のレアさはこの物語ではどう表現されているのだろう?と次に考えたくなります
レアな出会い
それは学校のクラスメイト同士の出会いという点でそれ自体は平凡なものであり、
レアさを成立させているのはレアな存在同士の出会いという点にあると思います
そんなわけで2人のレアさに目を向けていきます
森くんのレアさはなんと言っても粘菌への執着、その裏返しである人間への興味の希薄さでしょう
そして最終盤の失禁シーンも、かなり彼が特異的な人間であることを表現しているように思います
対して吉田さんはどうでしょう?
彼女はミステリアスな転校生としての登場し、その個性はなかなか明らかにされません
このミステリアスさによる個性の出し惜しみは意図的だと思いますが、
結局彼女の特性は最終盤たたみかけるように提示され、
読者は森くんとシンクロする形でそれを見せつけられます
圭太の強引さを合気道でお返しする吉田さん
その流れで前歯がさくっと抜けてしまう吉田さん
この特性に関してもそれを受けての森くんのリアクションも含め、意外性はしっかりと伝わってきます
意外性がきちっと伝わるからこそ、1/720という稀有な現象なんだということも説得力を帯びています
しかし一方で、あくまで個人的な私という読者に限った問題かもしれませんが、
森くんの失禁と吉田さんの前歯が抜けるシーンは読み通した限りでは解釈しきれませんでした
少し深掘りする必要があるようです
まず森くんの失禁について
一読した際、自分の内面の卑近なところが現れているようでお恥ずかしい限りではありますが、
失禁ではなく”射精”かと思ってしまいました
しばしそのイメージに囚われた後、
じょぼじょぼと流れる様や
よくよく登場人物たちの年齢層(射精にはまだ早い)に意識が向いて、
ようやくこれは失禁なんだと思うに至りました
この迂回路は私特有のものだと思いますが、
迂回の背景には
<性的衝動の芽生えと失禁がダイレクトに結び着かなかった>ということが自分の場合ありました
マンガなどの文脈における失禁
過去のそれに思いを馳せると、性的な要素よりもむしろ恐怖の表出という文脈で用いられてきた表現のように思います
圧倒的な暴力を背景に上下関係が固定され、キャラクターを恐怖が支配しきった場面
そんな状況で失禁が繰り出されるのではないでしょうか?
またフィクションでの表現というより現実にある現象とはなりますが、
犬のうれション現象も失禁と感情を接続する現象かも知れません
筆者藤原ハルさんのアイコンがイヌである点も踏まえると、
この作品における失禁にはうれション現象と連なるイメージもあるのかもしれません
これら2点を加味すると、
<未だ幼い異性間の性的接触とレアな出会いに立ち会ったうれション現象が混じった失禁>
勝手ながらそういう解釈がありえるのではと思っています
この解釈の難しさが私だけのものでないならば、
この点は大いなる課題なのかもしれません
ただ、それはこの物語固有の問題と言うよりも、
性への目覚め前の幼い人物たちにおけるboy meets Girlを描く場合に共通した問題なのでしょう
幼い異性間の出会いでは、性的要素の表現が本当に難しいんだぞ!
ということを示しているのかもしれません
つづいて吉田さんの前歯です
こちらは更に難しいですね
「前歯抜けちゃった」と俯き加減で言い放つ吉田さんの一コマは確かに魅力的ですし、
物語においても森くんを宇宙へと誘う大きな一押しとして重要な場面です
それはわかるのですが、その魅力や重要性の根幹はモヤモヤして上手く捕まえられません
単純に考えると乳歯が抜けるのはダイレクトに大人に近付いていることを示しているようには思います
ただ、それだけで森くんをノックアウトしたとは到底思えません
この感覚を頼りに、森くんをノックアウトしたという文脈をもとに紐解く必要があるのでしょう
万人に突き刺さるものではなく
森くんだからこそ突き刺さるもの
その視点でまず考えてみます
森くんといえば、
そもそもおおよそ多くの同年代の子が入れ込まない”粘菌”に惹かれている存在です
しかも、その状況を憂いているわけではないようで、
その証拠として、そうした状況から脱け出すきっかけになりそうな
学校社会と唯一接点をつくってくれる友人すらも疎ましく感じています
そんな彼は一体どんな人間に惹かれるのでしょう?
ぱっと思い浮かぶのが”粘菌”という稀有な自分の関心事に心から興味を持つ存在です
そういったレアな共感者との関係性を描いた物語は多くあり、非常に有効な筋ではあります
しかし、今回の吉田さんはそうした存在ではありません
なぜなら、作中で彼女と粘菌の接点は一切描かれていないのです
となると他にどんな存在が想像できるでしょうか?
もはや”粘菌”を介在物とすることもなく、
ダイレクトに森くんが”粘菌”の中の惹かれているものと共通したものをもつ存在はどうでしょう?
この存在は非常に魅力的な説で、作中の森くんが惹かれる過程にもフィットしたものといえるでしょう
それを説明するために、森くんが惹かれる過程をもう一度振り返ってみます
作中で森くんは中盤、吉田さんのゴミ捨てを手伝う場面では吉田さんへの好意の欠片すら見いだせません
そんな森くんが最後、畳みかけるような吉田さんの行動をみせられ、
瞬間的に吉田さんへの好意に打ち抜かれます
この急展開こそ
”粘菌”という媒介を通して徐々に通じ合ったというより
突然共通点を発見して打ち抜かれた説の妥当性を担保しているようです
自分こそクラスの中心と勘違いしてそうな圭太の暴力を打ち返し、
その流れの中で前歯がぽろりと抜ける吉田さん
この場面で初めて垣間見られた本当の吉田さんが
粘菌の魅力と瞬時に接合され、
反射的に森くんの身体が呼応したと考えてもよいのではないでしょうか?
ここまで遠回りして考えましたが、
吉田さんの魅力が私には直接的に解釈できない以上、
吉田さん前歯ポロリの魅力を知るには
森くんが粘菌の何に惹かれているのかの行き着いてしまいます
仮説が正しければ、そこにこそ吉田さんの前歯ポロリの魅力があるはずなのです
うーん、やっぱり粘菌に戻ってしまうのです
前述のようにややこしい粘菌に踏み込むリスクは多分にあるわけですが、
粘菌と森くんとのつながりが
物語を駆動させる原動力としてより詳細に描かれていたら
読者が共有できる物語の根幹になったように思います
最後になりますが、改めてマンガという表現形態の凄みを十二分に感じる作品でした
例えば、仮に森くんが文字のみで表現されたらどうでしょう?
相当丁寧に森くんの雰囲気づくりに注意を払わないと、かなり気持ちの悪い男子になってしまいます
しかし、本作では森くんのキャラデザイン一発で、そうした気持ち悪さは相殺されています
この効果的かつ無駄のない表現はマンガならではと唸らされました
また、そもそも私のように「前歯抜けちゃった」の解釈に戸惑う人間であっても
あのコマはしっかり魅力と重みをもって迫ってきます
この作用はマンガがビジュアル情報であり、時間をある程度止める機能もあるからこそであり、
この点も藤原さんがマンガ特有の強みを見事に操っているから成立しているように感じました
本作は本当に想像の広がる余地を湛えています
今回取り上げなかった点でも、
例えば、前述した友人も気になる存在です
彼が全く学校社会に心を開いていない森くんに拘るのはなぜなんでしょう?
彼自身が学校社会での立ち位置を見つけられていないからなのかもしれないし、
彼自身の特異な視点が森くん自身も気づいていない彼の魅力を見つけているからかもしれません
こうした想像の余地が沢山あるというのは
この物語が非常に読者の中でスムーズに駆動している証明であり、
より大きな物語に膨らんでいく可能性だと思います
素晴らしいマンガ体験でした
ぜひ次なる作品も読ませていただきたいです!