
「邂逅」コンプラはマンガとどこへ向かうのか
コンプラ時代、妖怪マンガは変わる時がきた。
最近のマンガを読んでいて、
「やたらと背景や理由を述べるマンガが増えた」と感じることはないだろうか。
敵にも味方にも事情があり、
単純な善悪では切り分けられない。
殴らない。裁かない。断罪しない。
この変化の背景にあるのが、
私たちが生きているコンプライアンスに厳しい社会だ。
暴力表現、差別表現、反社会的行為。
それらは今や「描いた瞬間にその必然性に説明責任が発生するもの」になった。
SNSを主戦場に、企業も学校も創作者も、常に“正しさ”を求められている。
そんな時代に描かれた妖怪マンガが、
古西『邂逅』である。
妖怪ハンターなのに、何もしない
『邂逅』の主人公・カネヒラは妖怪ハンターだ。
だが、彼は妖怪と戦わない。
妖怪が好きで、敬意を払い、
自作の推しグッズを作り、講演会まで開く。
完全に現代的な「推し活」の人である。
重要なのは、彼が一切リスクを取らない点だ。
危ないことはしない。
相手の懐に無理に踏み込まない。
社会秩序を乱さない。
これは彼が弱いからではない。
コンプラ社会ではリスクを取らずに周りに配慮して丁重に物事を扱うことが「節度を持った賢さと強さの表現」なのだ。
妖怪のほうも、やたら行儀がいい
そして本作に出てくる妖怪たちもまた、
驚くほど“お行儀がいい”。
むやみに人を襲わない。
無条件で脅さない。
普通に働き、普通に生活している。
かつての妖怪マンガ――
水木しげる『河童の三平(1961)』や『鬼太郎(1965)』では、カッパは人を水に引きずり込む存在だった。
『地獄先生ぬ〜べ〜(1993)』では、子どもを恐怖に陥れる怨念の象徴だった。
それらの妖怪は「危険だから無条件に人間社会へ介入してよい存在」だった。
だが『邂逅』の妖怪たちは、
人間への怨恨などの理由がない限り、人間社会への攻撃を行なってはいけない存在として描かれる。
妖怪側にも、コンプライアンスがある。
正しすぎる対応の、正しい結末
いよいよ妖怪と出会ったとき、
カネヒラはどうするか。
食べ物を粗末にしてまで追いかけない。
許可を得ずに捕まえない。
もちろん、無断撮影もしない。
会計はきちんと払い、募金までする。
河童の“人権”に最大限配慮し、
低頭平身で交渉する。
……その結果、どうなるか。
お互いに何も失うことがなく、同時に勝利や支配などの物語的な「成果」を手に入れることもなく物語が閉じる。
従来の物語論ではこれでは「何も起きない」とされてきた。
コンプラ時代に生まれた「成果」
だが『邂逅』は、ここで別の道を提示する。
この物語は、「解決」や「勝利」を描くのをやめ、「自分の好きなものに大きく嫌われず、愛で続けることができた」ことを成果にしている。
私たちの現実も、よく似ている。
高度経済成長期やバブル経済を経て、圧倒的な経済的優位や国際的な立ち位置を失った日本は「勝利」を失い、負債を抱えたものの「解決」も遠ざかってしまった。
「勝つこと」や「問題解決」を失った先に残ったのは、社会的評価を得なくても自分の価値観で生き続けることの大切さだったのではないだろうか。
そしてそれはコンプライアンスを守り続けることで多くの人が参加でき、延命し、より永く楽しむことができる。
『邂逅』は、
コンプライアンス時代の妖怪マンガが
どこまで行けるのか、その最前線に立っている。
