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「キャラクター」の謎 内語的・外語的


 ひらめき☆マンガ教室ではしばしば「漫画とは言語である」といったことが語られる。
 その意味は「言葉と意味が対になる言語と同じく。表現にはそれぞれ意味・意図があり」そして「言語なのだから習得・再現可能である」ということだとぼくは解釈している。特に後者が「教室」であるこの場所では重要な意味をもつ。
 

 一方で漫画を言語として理解した場合。通常の――われわれがふつう想像するような――言語とはちがった特徴も見えてくる。
 ひとつは意味が明示的でないことだ。たとえば「犬」という言葉はふつう四足歩行で毛の生えたあの「犬」を意味する。もちろん比喩としての「犬」などほかにもあるけど。すくなくともひとつ明示的な意味をもつ。
 一方漫画の多彩な表現は必ずしもそうではない。たとえば見開きや大きいコマは迫力を感じるし。縦に長いコマはストンと落ちるような感覚を覚えるけど。明示的な意味があるかというと……むずかしい。しかしプロの漫画家などの「漫画言語の習得者」はそうしたコマ割りやキャラクターの大きさ。カメラの角度や寄り具合等々の意味を瞬時に読み取り「こうしたほうがいい」とアドバイスできる。実際そんな場面を教室でも何度も見てきた。
 習得者には瞬時に読み取れるがそうでない人には明示的には読み取れない(しかし感覚的には確かに作用している)意味がある。その言語は読者に明示的にというよりは暗示的に。しらないうちに作用する。視線を誘導し。感覚を与え。それとなく視点人物を指定する。まるで無意識に作用する言語。言語SFの題材にでもしたくなるようなわくわくする性質だ。そしてそれは裏を返せば「習得者じゃなくても読める」ということでもある。
 

 漫画をふつうに読むぶんには漫画言語を習得する必要はないかもしれない。でも描きたいならそうはいかない。
 そこで今回は漫画という言語のなかでも謎多き――そして重要とたびたび言われる――「キャラクター」について本教室で提出された2作を見ながら追ってみたい。

「キャラが立つ」ってなに?

 「キャラクター」という観点でぜひ参照したい2作がある。須澤彩夏「除霊師お嬢様 浄怨寺レイカ」と古西「邂逅」である。
 前者は主人公のキャッチーなキャラクターが講評のなかで非常に評価され。後者はネームからの改稿のなかで主人公がガラッと変更され。それによって一気に主人公のキャラが立ち魅力的になった。どちらも読んでいただければわかるが明らかに「キャラが立って」いるし。それが作品の魅力におおいに貢献している。
 

 しかし「キャラが立つ」「キャラが立つ」って。いったいこれはなんなんだろう? 漫画の読者だったころはなんとなく分かった気になっていたこの概念が描いてみると。はた。とわからなくなる。
 いったいどうしたらそんなことができるんだ! おしえてください! マジで!
 

 こうしたむずかしさが漫画言語にはある。りんごを指さして「Apple」というようにはいかないのである。
 しかたがない。地道に。ゆっくり作品を見ていこう。

参照されるイメージ

 ひとつ気付くのはそれぞれのキャラクターには参照するイメージがある。ということだ。
 浄怨寺レイカは「お嬢様」でありさらに「除霊師」という要素が加わることで独自の魅力を引き出している。1日本のコンテンツ受容者のなかでは「お嬢様」といわれれば自動的にある種のイメージが立ちあがるようになっており。そうした共通認識ともいえるイメージを参照することで短編1ページ目からでも主人公のキャラクター性を瞬時にある程度伝達できている。
 一方「邂逅」ではネーム時点では海外赴任直前のつかれたサラリーマンだった主人公が改稿により「妖怪ハンター カネヒラ」へと変貌を遂げている。2カネヒラを見て読者が想起するのは「妖怪ハンター」というよりはもっと大枠の「奇抜な格好をした霊能者」になりそうだが。読者側の背景により参照されるイメージが多岐にわたりそうなのも本作のおもしろいところだ。3

独立機械としてのキャラクター

 注意しないといけないのはそうした「お嬢様」「除霊師」「奇抜な霊能者」といった「属性」そのものが重要なわけではないということだ。よく言われるようにキャラクターは属性の束ではない。しかしだからといって属性が無くていいわけでもない。属性という手がかりがなければ読者はキャラクターを掴めずその人を「どう思えばいいのか」わからなくなる。
 思うに「キャラクター」とは読者がエミュレーション可能な人物像のことなのではないだろうか? ある程度どんな人か。どんなときにどうする人なのか読者が想定し計算できること。「キャラが立つ」とは独立しているということだ。読者のあたまのなかで独立しているからこそ「たしかにコイツならこんなときこうするよな」といった納得や「言われてみればコイツがこの状況に置かれたらこんな問題起きるわ!」といった驚きが生まれる。独立し想定できるからこそ「つぎはどうするんだろう?」と予想したくなるし予想からのズレがさらに興味を惹きだす。
 

 そうした意味で「除霊師お嬢様 浄怨寺レイカ」は非常に優れている。単に「お嬢様」+「除霊師」という属性の組み合わせが新しいとかではない。丁寧語でズバズバあけすけに物事を言うことがお嬢様のイメージに合いつつ物語を駆動しており。世間ずれしない例外的な立ち位置が俗で凡庸なアンチ活動への批評に説得力を齎している。そしてある種無邪気な善良さが相談者を救う。すべてが「お嬢様」「除霊師」という要素から計算可能であるようにできているのだ。
 

 キャラクターが独立していること。そして(ある程度)計算可能であることは読者の「たしかに」や「言われてみれば」を引き出し。「つぎは?」につながる。これはおそらく人間の「他者」との関係にまつわる機能をハックしたやり方なのではないかと思う。人間は他人に興味をもつようにできている。人間は他人に興味をもつようにキャラクターに興味をもつのだ。

内語的キャラクター

 しかしここで疑問がわく。キャラクターは果たしていつも「他者」としてしか現れないのだろうか?
 

 ここからは作品を読んだ際の個人的な感覚が根拠になってしまうが。「邂逅」を読んだ際の手ざわりはそれとはすこしちがうような気がした。
 もしかすると単に自分が京極夏彦がすきで妖怪がすきだからそう読んだのかもしれないが。どちらかというと「邂逅」は「そうだよね。妖怪にあいたいよな」と共感しながら読み。そして「会えてよかったね」と一緒によろこびながら読みおわった。妖怪ハンター カネヒラの派手な霊能者というあまり共感しやすいと思えない造形にかかわらずである。
 「除霊師お嬢様 浄怨寺レイカ」はどちらかといえば浄怨寺レイカのズバズバ言う言動に「よくぞ言ってくれた」と相談者と一緒に元気づけられたりそのキャラクター性がどのように駆動するのか「他者」として興味をもちながら読んだ。一方「邂逅」はカネヒラに憑依するように共感しながら読んだ。そして両者のキャラクターの少なくとも外見的特徴はそうした読みの違いに関係が無いように見える。
 ではこのちがいはなにが生んでいるのだろう?
 

 具体的な作品評にはいるまえの無駄に長かったように見える前置きを思い出して欲しい。漫画という言語は明示的ではない形で手を変え品を変え様々な手段で読者に作用してくる油断ならない言語である。ここでもそのちがいは明示的ではないなにかが生んでいるに違いない。
 

 両作品をあらためて読んで気付くのは「邂逅」のモノローグの多さ。「除霊師お嬢様 浄怨寺レイカ」のモノローグのなさである。
 そして感覚的な話になって申し訳ないが。このモノローグを読むときとフキダシに囲まれたセリフを読むときで手ざわりがちがう。あたまのなかでの響き方がちがうのである。
 このちがいは感覚的には内語と外語。つまりあたまのなかでのみ話す言葉と口に出して話す言葉のちがいに近い。
 

 言ってしまえば当たり前のことを当たり前に言っているだけのようでもあるが。内語は自分に向けての言葉であり。外語は他者に向けて/他者に向けられての言葉である。それらの頻度・濃度によって漫画はキャラクターへの読者の向き合い方――他者 or 自己――を調節し知らないうちにインストールしてくる。
 「邂逅」のカネヒラは造形や彼のもつ属性からは他者性がつよく感じられるが。モノローグの多さによってしらないうちに読者側にするりと入ってくる。こうした内語的キャラクターは属性の異質さ・他者性にかかわらず内語によって共感を呼び覚ますのだ。そして「邂逅」の話の運びからいってその選択は正しかったというべきだろう。

 さて。まとめよう。
 漫画という言語は(通常の。すくなくとも地球上で使われているような)言語とは異なり。明示的ではないやり方で読者に作用してくる。コマ割り。キャラの大きさや向き。カメラ。タッチ。セリフの大きさや量。そしてキャラクターの造形などなどさまざまな手段であらゆる方向から作用してくる。
 今回はそのなかでキャラクター。そしてモノローグの扱いによる作用に絞って「除霊師お嬢様 浄怨寺レイカ」「邂逅」を参照しながら迫ってみた。それぞれ独立した計算可能な外語的キャラクターと。モノローグによりするりと入り込む内語的キャラクターというべつのやり方で読者とキャラクターとの関係をつくりだす様子を観察した。
 
 当然ながらこれは多種多様な漫画言語のやり口のほんの一部に過ぎない。
 ゆめゆめ油断されぬよう。それはいろんな手段でしらないうちにわれわれに作用してくるのだ。
 そう。霊や妖怪のように……。

  1. おそらく「除霊」と「令嬢」の言葉遊びではないか。と睨んでいる。本作はほかにも「お除霊☆ヌーヴォー」など言葉遊び好きには見逃せないセリフがちりばめられていて本当はもっと語りたかったが長くなってしまうため断念 ↩︎
  2. いやしかし。おもえば改稿により大きな変貌を遂げた本作のタイトルが「邂逅」であることも意味深い……いや。意味はないかもしれないけど。おもしろい。 ↩︎
  3. まず第一にやはり和装に指ぬきグローブの水木しげるおよび妖怪愛好家といえば小説家・京極夏彦だろう。しかし氏を知らない人にとっては江原啓之(やそこから連想で美輪明宏)などのテレビに出ていたスピリチュアルな人物を想起するかもしれない。一方漫画のなかでぼくが最初に想起したのは『BLEACH』のドン・観音寺であり。そこからさらに『ドラゴンボール』のミスター・サタンを連想した。今回当初はこのあたりの話を書く予定だったが。批評は「参照先当てゲーム」ではないよなと思いなおし断念。けれども個人的には非常に興味深い部分だ。 ↩︎
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