
好きなマンガ一冊『火の鳥 異形編』
はじめまして、
ひらめき⭐︎マンガ教室第8期ひらめき制作コースを受講します沖永和架奈と申します、
1年間どうぞよろしくお願いします。
好きなマンガを一冊挙げろと言われたら、自分は
手塚治虫『火の鳥 異形編』
を挙げたいと思います。
手塚治虫公式ホームページ 異形編あらすじ・解説ページ → https://tezukaosamu.net/jp/manga/392.html
以前、千原ジュニアさんとケンドーコバヤシさんの深夜トーク番組『にけつッ!!』で「好きな漫画聞かれて手塚治虫って答える奴はわかってない!それは前提やん!」みたいな内容のトークをしていたような記憶があります。そのことに関しては自分も同意するのですが、こういう場で一冊挙げろと言われたらやっぱり自分はこれかなぁと思います。そもそも普段、まったく漫画を読む習慣がないのであまり多くの漫画を知らないというのもあります。
『火の鳥』を初めて読んだのは小学校5年生、教室の後ろには学級文庫として大判コミックスの『火の鳥』と『はだしのゲン』が置いてありました。『火の鳥』どの編もそれぞれ好きなのですが、当時、異形編に受けた衝撃は、その時間の構造についてであったと思います。
漫画ではお話の冒頭と結末が円環構造を成して繰り返されているのですが、その円環構造の起点には常に主人公・左近介が犯す殺人の罪があります。異形編全編を通して読むと、どう考えても主人公が罪を犯すことから逃れられない因果の連鎖があり、「異形編を読み始めるこのタイミングでいつも主人公はこの因果の鎖から抜け出せるのに絶対に抜け出せない」ようになっていると感じます。

ナメクジが文明を築く『火の鳥 未来編』のように宇宙年代記レベルの果てしない悠久の時間を描くのではなく、『異形編』は作品の中で繰り返される30年の時間によって「構造としての永遠」を描いてみせた作品だと思います。小学生当時の自分がそこまで言葉にして理解していたわけではありませんが、それから自分が生きている今もいつ何時も同じ因果の鎖の中に囚われ続けている左近介の姿が、ふとした時に脳裏をよぎるのです。
そんなわけで、雛鳥が初めて見たものを親だと思い込む現象を刷り込み現象と言いますが、自分にとっての手塚治虫先生に対する刷り込み現象は『火の鳥 異形編』だと言えます。
20代に入ってからの自分が『異形編』について思うことは、では逃れられない苦しみの因果の連鎖の中でどう生きるかということです。主人公は、自分が捉えられてしまったその連鎖を引き受けていく存在としても描かれています。
作品世界の時は乱世、世が乱れに乱れておりそこで犠牲者として生み出される大量の虐げられ傷ついた人々を、火の鳥の羽で撫でて治していく役割を、その役割を担っていた尼僧を殺した罪の代わりに主人公は担っていきます。
自分も本当に逃れられない因果の鎖の中に捉えられた時、こんな風に生きられるのだろうかと考えずにはいられません。
今回、ブログ記事のために読み返してみて、自分も生涯で一度いいから、いつかこの高みにある作品を描けるような生き方をしたいと思いました。
ここまで拙文をお読みいただいた方、ありがとうございました。