【本】『FOR BEGINNERS シリーズ (日本オリジナル版) 吉本隆明 』を読んだよ【No.1】
なんだか重要らしいが昔々のおじさんだし、同世代の口から全然名前も聞かないし、果たしてぼくはいつこの人と出会うのだろうという人物の筆頭であったところの吉本隆明の入門書?をついに読んだ。
『FOR BEGINNERS シリーズ (日本オリジナル版) 吉本隆明 』
理由は簡単。ふらっと立ち寄った古本屋に100円で売っていたから。ありがとう古本屋。ありがとうお金。
共同幻想だとかなんだとか画数が多そうであんまり多くない単語ばかりを知っていたが、ついにその足元を眺めることに成功したので今のぼくはとても得意げである。えへん。でも実際のところ、吉本隆明でおもしろいのは「大衆」の定義とか、やたらめったら異性との関係性を重視しているTHE戦後感のある思想の組み立て方をしていることそのものなんじゃないかと思った。この辺、「個人」っていいよね、「個人」であれば戦争とか起きないんじゃね?みたいなところにも関わってくるのでちゃんとジェンダー論を修めている人に取り上げて欲しい。あとおもしろかったのは連合赤軍に対する評価のところ。あれって当事者性の話だし、3.11があった時とかケアの話の時とかにもう少し分かりやすく吉本隆明が引用されている世界があっても良いんじゃないかと思った。
念のためことわっておくが、こんなふうに考えられるのはぼくが完全に戦後の人間だからなんだろうということくらいは理解しているつもり。
全体的にとても楽しめたのだが、読み終えた直後の素直な感想を書けば「⑫吉本隆明にとって『最後の親鸞』とは何であったのか」以降の章は明確につまらなかった。以下はぼくの妄想だが、この辺りの思想について著者がよく理解していない状態で文章を書いたのだと思う。これ以降の章で一番盛り上がったのは「親鸞ってなんか最近もどっかで聞いたな?――あ、植木等の親父の話だ!」という回路が自分の中でつながった瞬間だった(つまり章タイトルを読んだその瞬間)。
「(大衆の)定義をいってしまえば、自分の日常の生活過程ですね、生活に起ってくる以外のこと、例えばベトナム戦争はどうなっているだろうかとか、日本にはどういう文学者がいてこういうのもを書いていて読んだらおもしろかったとかいうような、そういう日常生活以外のことについては全く考えたり関心を持ったりしない、いってしまえば知識の過程に少しも入ってこない人たち」「日常の生活を繰り返し、職業的生活の範囲でものをかんがえ、そしてその範囲でものを解決していく」というような存在を指すのである。
『FOR BEGINNERS シリーズ (日本オリジナル版) 吉本隆明 』(文:吉田和明、絵:秋山孝、株式会社現代書館)p64 ●大衆とは何か
当時の大学進学率とかを考えるとまあ分からなくもない言い回しなのだが、今ふつうにみるとあまりにも差別的な発言でもうおもしろい。とかいうのはおいといて(立川談志口調で)。こういう定義をもとに考えるとSNSが人間を(知識人を)どう難しくしたのかとか分かりやすくなるし、楽しいんじゃないかと思うよね。SNSの発達によって人間が「職業的生活の範囲」外の事象を気軽に観察できるようになった結果かつての大衆は消え去り、同時にかつて知識人を知識人たらしめていた区別がなくなり”他立”させられるべきものを失ったために、現在の世の中において知識人は成立しえないのだ! とかね。←まあこれはTVでだって「職業的生活の範囲」外の事象を観察できたはずだゼとか簡単な反例が無限に思いつくのでもうひとつふたつ補助線が必要だとは思う。あ、でもこれもSNSとTVの対象物に対する距離感の違いとかで何とかできるか。とかいろいろ考えれらるので楽しいのだ。ここまで書いて思い出したけど、無とか有とかは吉本隆明の”知識人”ロジックを使うと楽しく説明できると思う。無は大衆で有は知識人だ、みたいなすげぇ単純な図式ね。知らんけど。
あと大衆の総敗北の件とか、(この本に基づけば)いってることが明確に変、というかごく当たり前のことを分かってないふりをしたようなテンションで書かれているので、あのあたり部外者が勝手に整理するとおもしろいことが言えそう。ぼくの感覚からしたら平和がカギになる気がしている。いぇーい。いったもん勝ちだぜこんなん。
とまあ、そんなこんなで読み終えた後しばらく楽しくなれる本なのでみんな読めばいいと思いました。
おわり