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『愛とは、自己本位な「部分」への偏愛から始まる、「連続した関係性」〜イドガネさん「じいちゃんの手」感想〜』


 妻と死別した新沼耕一の下に、かつて面倒を見ていた金子マリが現れた。幼い彼女の両親は共働きで、親が不在の時には、耕一の妻の提案によって家で預かっていたのだ。現在美大に通うマリは、じいちゃんと呼ぶ耕一の手が、彫刻制作の理想的な参考になると言う。しかし話すうちに、彼女から恋愛の悩みが打ち明けられる。見た目というパーツへの興味はあるが、その人自身への興味を持てる自信がないのだという。そんな彼女へ耕一は、彼との結婚は妥協から始まったという、死別した妻の言葉を紹介した。他者への関心は自己本位な部分への関心をきっかけに始まる、そして関係の連続性こそが愛なのだと耕一はマリへ説く。彼の言葉によってパーツにしか興味が持てない自分が、人を愛することができるという可能性に気付いたマリ。作品を通じてマリがパーツへの興味を通じて他者の全体性への関心に気づき、人を愛することへの自信を獲得する過程を見ていく。

 

 人が好きという感情がよくわからないというマリ。彼女の好意は他者の見た目というパーツへ向かう。「だからその人そのものに興味が持てなくって… そんな私が人と付き合っていいのかな…」(p.10、1コマ目)と彼女は言う。耕一は彼女に、死別した妻の彼と結婚した理由を紹介する。「最初は妥協」(p.11、4コマ目)、「今も結婚し続けているのは おもしろいから」(p.12、2コマ目)、「花壇の花みたいに 大きな変化はないけど 毎日少しづつ違う顔が見えてくる」(p.12、5コマ目)と言った耕一の妻。そして彼はマリに「パーツだろうが妥協だろうが 最初はなんでもいいんだ」(p.13、2コマ目)、「接し続けているうちに興味が湧いてくる 相手のことをもっと知りたいと思うんだ」(p.13、3️コマ目)と説く。妥協からであっても、そこから相手を知りたいと思うことが大事だと彼は考える。マリはパーツに対しての興味を、「その人そのもの」への興味よりも劣るものと考えているのだろう。しかし耕一は「その人そのもの」という不定形で拠り所のないものよりも、具体的なパーツや妥協という自己本位から始まる関心を重視している。関係の本質を連続性として捉えるのならば、パーツへの偏愛や結婚における妥協にもまた、連続性の起点としての価値が見えてくる。

 マリの「パーツ」と耕一の妻の「妥協」。これらは相手に対しての自己本位でエゴイスティックな「部分」への興味を指している。しかし耕一は妻の言葉をマリに紹介し、愛の本質を関係の連続性だと言う。彼は部分への興味こそが、関係の連続性という愛の本質へ至る契機としての価値を持っていると主張しているのだ。

 好きになるのは「見た目やパーツ」で、「その人そのもの」に興味が持てなくて、恋愛感情が分からないというマリ。しかしそのパーツを扱うマリの所作から耕一は、「よく知りたいという気持ちといっしょに」(p.14、2コマ目)、「大切に扱おうとしているのがわかる」(p.15、1コマ目)と言う。パーツにしか関心が持てないというマリから耕一は、相手を大切に扱おうとしていると感じ取った。それがあれば「人と付き合う」ことを恐れることはないのだと耕一はマリを励ます。

 パーツへの興味や妥協という打算。自分本位なきっかけであっても、それを起点とした関係の連続性の中で、相手を大切に扱うことが、愛の本質なのだと感じた。部分への愛が関係性の始まりと時間的継続を担保し、そこから他者との愛情関係が始まる。部分と全体の対立を、パーツへの執着や偏愛を肯定することがもたらす、関係の継続性で乗り越えることができると感じた。この作品はマリと同様に部分的な偏愛に対して自信を持てない人々に、人を愛する勇気を与えると感じた。

 ラストのオチにおける、マリの「私は結婚するなら公務員ってことは決めているから」(p.17、4コマ目)というセリフからは、耕一の肯定する関係の連続性の起点であるパーツが、彼女の結婚条件の表現となって現れている。元々見た目というパーツへの自己本位な興味を抱くマリが、さらに付け加えて「私は結婚するなら公務員と決めてるから」(p.17、4コマ目)と、自己本位的な他者の部分への関心を表現する。そんな彼女からはパーツへの偏愛を起点に他者との連続的な関係性へ踏み出そうという、耕一と再開するまで持つことができなかった自信が伝わってくる。

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