『河川敷レトロ』が誘う思春期へのノスタルジア
強い女子と弱っちい男子の話
『河川敷レトロ』は、「強い女子と弱っちい男子の話」である。この説明は著者どんどこすすむの言葉をそのまんま借りてきたものだ。
端的に言うとその通りである。アケミは強く、ケン坊は弱い。しかし、ケン坊の弱さがどういったプロセスを経て成立していったのか、読者はページを追っていけば知ることになる。
ケン坊の幼児的な万能感のへし折られ
まず物語は中学卒業式の帰り道から始まる。腕力のあるアケミ(強い女子)が幼なじみのケン坊(弱っちい男子)の手首をぎゅっと掴んで、尻込む彼に一緒に帰ろうと誘ったのだ。
ともに河川敷を歩く場面の後、物語は小学生時代にまで遡る。そこで読者はおやっと思うだろう。小学生時代のふたりの関係はなにやら今と違い、明るく開放的で対等なものとして描かれている。ケン坊は幼稚ないたずらっ子という体で登場し、現在のおとなしい佇まいとは正反対だ。
しかして事件は起こる。放課後、ケン坊は同級生の男児たちに因縁をつけられ、危機一髪のところをアケミの圧倒的なパワーで助けられるのだが、なんとその際にケン坊は失禁してしまう。恐怖のあまり失禁してしまうという描写はなかなかに象徴的である。これはまさにケン坊の幼児的な万能感がへし折られて、フロイトが唱えたところの「去勢」が行われたと思われる。「去勢」の概念は、その事件以降、ケン坊がめっきりおとなしくなった点においても明白であろう。
アケミはケン坊に因縁をつけてきた男児の腕を「へし折るよ」と威嚇したが、アケミの強さを含めて暴力的な状況そのものがケン坊の心(幼児的な万能感)をへし折ってしまい、結果的に「去勢」へと導かれたと解釈できる。
こざっぱりした線と揺らぎのあるフォルム
さて、ここからは『河川敷レトロ』の線描写や演出方法に注目してみたい。
どんどこすすむの引く線はこざっぱりしていて見やすい一方、どこかしら揺らぎのあるフォルムを描くため、読者は妙な情感に吸い寄せられるのではなかろうか。たとえば、①ケン坊の腕をギュと掴むアケミの手(2ページ、2コマ目)、②ケン坊に因縁をつける男児の腕をギギギと掴むアケミの手(8ページ、2コマ目)、③腕相撲の構えで互いに握り合った手(13ページ、5コマ目)、④柔らかく絡み合う互いの指先(16ページ、2コマ目)。しかも①〜③は同型のコマとなっており、演出上の連なりを感じさせる。
無音によるクライマックスシーン
小学時代の回想を終えて、物語は再び中学卒業式からの帰り道、河川敷に戻る。アケミは「腕相撲しようよ!」とケン坊を無邪気に誘う。
極めつきはこの腕相撲のクライマックスシーンだ。ここではいわゆる無音になる。台詞や環境音をつけない演出は、それまでにない時間感覚の世界(ふたりだけの閉じた世界)をくっきりと浮かび上がらせる。腕相撲の結果、力の性差という現実がふたりのうえに「静かに」かつ「不可逆的に」襲いかかるシーンだ。無音の効果は読者に視覚的な変わり目を与えて、無時間の中で宙吊りにされたふたりの表情を鮮烈に受け止めさせる。
ふたりの間に湧き上がった感情と思春期へのノスタルジア
ふたりの力の逆転を前にして、アケミは意外な成り行きをあっけらかんと笑うことでしか応答できなかったし、ケン坊はそんなアケミを見つめ返すことしかできなかった。
果たしてふたりの間に生じたものは何であろうか。
ここからは勝手な想像力を膨らませることをお許しいただきたい。
ふたりの間に生じたもの──それは、ふたりの関係性を決定的に変えてしまうかもしれない成熟への不安と、仄かな熱を帯びた兆候(異性への淡いときめき)ではなかろうか。成熟への不安と微熱のような兆候とを撚り合わせた状況に対して、アケミは強気に抗う。「私 大人になんか なりたくないよ」と。ケン坊もそれに呼応する。
思春期の身体変化とそれに追いつかない心をもったふたり。腕相撲の気軽なゲーム性の中で両者の性的なニュアンスを拭い去った状態で、身体の構造の違いから派生する男女の力の逆転を見せておいて、そのうえでラストページでのふたりの指先の絡み合いは何とも言いがたい微熱を孕んでいた。さらに、最後の大きいコマには情景描写があてがわれている。この一点透視図の背景は読者の視点をぐっと奥まで誘うだろう。絡み合う指先の不安と微熱は奥行きに吸い込まれていき、空と河川敷がただただ広がっている。
ああ、思春期へのノスタルジア。