ヤギワタルさんの『人魚は海に帰れない』感想
人魚姫という1つのできあがった物語があって、そこから新しい物語を紡ぐのは本当に難しい課題ですね。
くどくならないように、でも不足なく設定の紹介を行う難しさ。
つくる側も読む側も、ある程度固定イメージがついたものを違和感なく引き剥がして新しいものをのっける難しさ。
うーん、想像するだけでも難しいですね…。
そういった点を踏まえて読むと、より想像も付かない世界へ連れて行ってくれたのはヤギワタルさんの『人魚は海に帰れない』でした。
『人魚は海に帰れない』は一貫して物語の主題を人魚姫の悲恋モノからずらそうという意志が伝わってくる作品でした。
読んでいて新鮮な驚きに溢れています。
のっけの王子とのシーンからヒシヒシとその意志は感じられます。感情の機微もわからず、周囲の声に迎合するしょうもない王子。
その像は人魚姫の王子とはかけ離れたものです。
そうした王子の姿を踏まえて、人魚姫の恋愛感情がしっかり冷め切っている宣言もなされるわけで、とてもわかりやすい導入でした。
王子が結婚式前に人魚姫を探しに来た文脈があったら、なおわかりやすくなるのではとも思いましたが、そんなものはなくとも十分王子の駄目さ加減は伝わってきました。
(4ページ1コマ目の空々しく人魚姫の容姿を褒める台詞から王子の文脈を推測するに、人魚姫を探しに来たのは、薄っぺらい罪悪感の解消としての行動だったのでしょうか?)
そして、その次に開示される、人魚姫が王子に惹かれた理由も唸りました。
<そもそも彼女は王子に惹かれたというよりも、長い生に感じていた退屈さからの反動だった…>
その背景を踏まえると、王子の人間性に対する人魚姫の見極めが浅いのも納得であり、駄目さ加減に気づかないまま魔女との取引に乗ってしまうのも説得力が増します。
また7ページの、徐々に王子の駄目さに気づく過程の人魚姫の表情もとてもよかったです!
不信感と幻滅がしっかりと伝わってきました。
そして8ページ目の図書館の場面から、物語は大きく独自の世界を切り開いていきます。どこに連れて行かれるんだという感覚が走り、没入感が自然と高まりました。
そうした展開の中進む、10~11ページのくだりはさながらミステリーのようです。
ヒントをきっかけに謎が紐解かれていくという読者によく馴染んだ図式がしっかりと駆動するため、“魔女がすべてを仕組んでいた説”に人魚姫の推理が至る過程がするりと飲み込めました。
具体的には、10ページ3コマ目の!が本というヒントで人魚姫の推理が走り出したことがしっかり提示され、本というヒントからの連想がテンポよく可視化された点が効果的だったように思います。
これらの小気味良さに誘われ、11ページ1コマ目の気づきに心地よく至ることができました。
対して12ページは司書が人魚姫の意図(魔法を解く方法)に気づくシーンですが、私の読む力不足もありますが、ややスムーズに飲み込むことができませんでした。
わかりやすく11ページ最後のコマの本に気づきのヒントがあったら人魚姫の気づきのようにスムーズに飲み込めたような気もします。
その後、クライマックスにあたる14ページからは<能天気に盛り上がる挙式>と<人魚姫の絶望>の対比がとても効果的でした。
人魚姫のジリジリとした焦燥感混じりの絶望がよりくっきりと強調されてわかりやすかったです。
この効果も相まってテンポが加速する中、
最後に行き着いた人魚姫の決断。
これが個人的には一番の圧巻ポイントでした。
<人魚だった私にしかできないこと…>
この言葉は本当に深く考えさせられます。
図書館のシーンが思い出され、本を書く人間の欲求と一心不乱に描く人魚姫が自然とつながりました。
泡になりかけながらも、焦燥や絶望を忘れた人魚姫。
その姿こそ、書き残すということの意味を湛えているようです。
人間が書くという行為は、命という有限性のもとに駆り立てられる存在証明なのかもしれませんね…
この着地点は悲恋を描いた人魚姫の物語とは全くもって違うものであり、本当に素晴らしかったです。
素敵なマンガ、ありがとうございました!