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マンガを勉強するということ


ひらめきマンガ教室(以下、ひらマン)には3期から参加し、その後3期連続で参加している。
決して安い金額ではないと思いつつも、だからといって熱心にその金額分以上を授業から回収しようと頑張る良い生徒でもなかったと思う。

 

毎月実施される講義は大変長く、だからといって密度が低いわけでもない。
ただその場にいるだけで、十分に元を取れた感じがしてしまうのでありがたいが、学ぶサイドが試されている感はある(別にひらマンに限った話では全くないが)

 

合計30回近くの講義を受講する中で、大体のマンガを作るということについての基礎知識は身についてきたかなと思いつつ、だからといって面白いマンガを描けるわけでは無いのはわかりきった話ではあるので、自分がマンガを描けないことに対して今更絶望したりはしない。

 

一方で、学んだことが日常にまったく活きないかというと、意外と活きている場面はあると思う。

 

先週末、邦画を観た。知り合いが出演している、ということが観ることのきっかけだったが、周囲の観た人たちの感想は概ね悪くはなかったので、かすかな期待をしつつ、2時間強、ここ1ヶ月で痔持ちになった尻をかばいながら、日比谷の地下で映像を観た。

 

個人的にはまったくもってイマイチだった。

 

ざっくりとした映画のストーリーを話すと、4人兄弟で生活している一家の次男坊が、とある理由で兄弟たちから離れざるを得ず、離れるまでの期間にどうやって過ごそうか、という話だ。兄弟はそれぞれ問題や悩みを抱えていて、それがどのように最後までに解決していくかというのが、映画における見どころの中心だと認識した。

 

ひらマンでは、原則毎回の課題で最大16Pの読み切りマンガを描くことになる。自分自身は3期以外、課題提出の義務がない形で受講しているわけなので、ここ2年間はずっと課題を提出している方のフィードバックを聞く形での参加になる。

 

大体のフィードバックについて共通しているのは、「主人公が16Pの中で最初と最後でどう変化したか、が描けているか」という点だ。
物語の途中でなにかしらの事件(イベント)に巻き込まれることで、主人公はどのように変わったのか(もしくは変わらないなら変わらない理由は何だったのか)を描くことが、一般的なマンガにおいては求められるということが何度となく授業の最中で話題に登る。

 

今回観た映画では、この点がまったくもって描けていなかったことが、作品中盤からずっと気になった。
兄弟それぞれが抱えた問題や悩みは、まったく解決されない形で終わるか、本人はまったく努力をしないまま、都合の良い設定ですべて解決されてしまい、兄弟たちが最初と最後で変わったことはほぼないと言っていいに等しい。泣かせようとするシーンはあり、ジーンとしなくもないのだが、この兄弟たちは果たして必死に生きて、目の前の課題に向き合おうとしたのだろうか、と常に疑問が頭に浮かび、少なくとも自分のこころに響くものがなかった。

 

キャスティングありきの作品であったのだろうとはいえ、あまりにも納得できない内容であるがゆえ、大丈夫かな邦画業界?と余計なことすら思わざるを得なかったのだが、一方で自分自身が上記のような問題意識について認識できたのはひらマンの授業を受けていたからなのではないかなとも思う。

 

脚本の良し悪しを言えるほどの経験は積んではいないので、自分が実制作に足を踏み入れたらケチョンケチョンに言われることは容易に想像できるが、ひらマンを受講するだけでスタートラインに立つにあたっての基礎知識は手に入るのではないかなぁと自分自身への希望も込めて思ったのだった。

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