
【改稿】なぜ私たちは心優しいオジサンを愛するのか――『邂逅』を通じて考える〈愛〉の限界と可能性
私見では、『邂逅』は、ひらめき☆マンガ教室において古西さんが提出した課題作品のなかで最も成功した作品だ。その成功のおもな理由が妖怪ハンターカネヒラの存在にあると言っても、反対する者は少ないだろう。
カネヒラは、メッシュ入りの波打つ黒髪にサングラス、着物、指なし手袋と強烈な外観で登場する。体も大きく、リアクションもドラマチックだ。異様な存在感を放つカネヒラだが、話が終わる頃には、読者の心をつかんでいる。最後のシーンで、体を縮めて腕をばたつかせるカネヒラは、なんともかわいらしく、愛おしい。
それにしても、なぜ私たちはカネヒラを愛おしいと思うのか。言い換えれば、なぜ私たちは心優しいオジサンを愛するのか。それを理解するためには、カネヒラ自身の属性を見るだけでは足りない。物語の構造の中にカネヒラを位置づけなくてはいけない。
『邂逅』と他の古西作品を比較して気づくのは、『邂逅』が非常に偏った作品であるということだ。『邂逅』が読者に伝えるのは「妖怪に会いたい!」という気持ちだけだ。ストーリーと呼べるストーリーはない。カネヒラというキャラクターは、「妖怪に会いたい」という気持ちを体現するためだけに存在する。
他の古西作品はもっと複雑だ。『名前のない宝石』も『犬とうらめしや』も『すーぱーたぬきぶらざーず』も、ストーリーがあり、ストーリーを動かそうとする意志がある。例えば、1『名前のない宝石』は角人の村を舞台とした村の女の子と放浪作家との交流を描く物語だ。3作品にはそれぞれ、古西さんが得意とする可愛いキャラクターが登場し、事件が起きる。だが、どの作品も強い中心を持たない。コイツだけを見ていればいいと思わせてくれる自立的なキャラクターが存在しない。その結果、作品に感情を乗せきることができない。不思議なことに、見るからにかわいいキャラクターたちよりも、奇抜な風貌のカネヒラのほうがかわいらしい存在として読者の印象に残る。
あえて単純化すれば、『名前のない宝石』以降の3作品はストーリーを伝える作品であるのに対して、『邂逅』は感情を伝える作品なのだ。
ここで、マンガによる感情の喚起について考えるために『邂逅』と極めて似た構造を持つ『おじさまと猫』という作品を紹介したい。『月刊少年ガンガン』(スクウェア・エニックス)で連載中の桜井海によるマンガだ。
『おじさまと猫』の第1話はたった4ページしかない。醜さゆえに売れ残った猫が、自分を必要としてくれるおじさまに飼われて喜ぶという、至極単純な話しだ。単純な話なのに心が揺さぶられる。
話の流れを整理すると以下のようになる。
受難(売れ残り、安い値段、「可愛くない」という客の言葉)⇒諦め(無表情な猫、「もう諦めた…」「どうせ誰も私にゃんて欲しがらにゃい」という内声)⇒出会い(「この猫をください」という客の出現、驚く猫、「期待にゃんかさせないでくれ!」)⇒喜び(おじさまに抱かれて目に涙をためる猫)
この流れに沿って読者の感情が動かされる。最初に、不細工なデブ猫の惨めな境遇を知り、猫の諦めの表情や心の声から、猫の悲しみを感じる。そして同情する。「もう諦めた…」「どうせ誰も私にゃんて欲しがらにゃい」との言葉に、誰かに求められたいと切望する猫の思いを感じ、同情を深める(図1)。このとき読者の心は猫と一体化している。「この猫をください」と言われて不信に陥る猫の悲しみの深さを感じ、おじさまに抱かれる猫の涙にジーンとする(図2)。最後には愛おしさでいっぱいになる。2
図1

図2
『おじさまと猫』に見られた受難⇒諦め⇒出会い⇒喜びという流れは、『邂逅』にも存在する。『邂逅』の流れは以下のように整理できる。
受難(恐れられ、妖怪に会えない。ひっつみ屋店内のひそひそ話)⇒落ち込み(「妖怪さんに会いたい」、白黒のグラデーションで顔の立体性が強調される)⇒出会い(黒地に白抜きのコマ、カネヒラの顔も黒い縁取りと白の二色だけで驚きを表現)⇒喜び(少女漫画のようにキラキラと光の粒が散る、歓喜の表情、+カッパの前に屈みこんで腕をばたつかせるカネヒラ)
『邂逅』では「受難」の後に「落ち込み」が来るが、猫の「諦め」もカネヒラの「落ち込み」も、疎外されることへの悲しみの現れであるという点で共通している。大事なのは、それまでカネヒラを不信の目で見ていた読者が、カネヒラの落ち込む姿を見て、彼の悲しみを感じ、彼に心を開くということだ。P3の「妖怪さんに会いたい…」と打ち沈むカネヒラのアップ(図3)は、黒い背景に対して白黒のコントラストで顔を立体的に強調することによって、カネヒラの悲しみを印象づける。読者は、打ち沈む大男におかしみと同時にシンパシーを感じる。だからこそ、カッパに会って雷に打たれたように驚愕するカネヒラに、妖怪への思いの深さを感じるし、体を屈めてカッパにサインを求めるカネヒラの喜びあふれる姿に愛おしさを感じる(図4)。「よかったね~」と一緒に喜びたくなる。9ページをかけて、怪しい大男が愛しい存在へと変化する。不細工な猫が愛おしい存在へと変化したのと同じように。


図4
ここでようやく冒頭の問い、「なぜ私たちは心優しいオジサンを愛するのか」、の答えが見えてきた。
『おじさまと猫』と『邂逅』を比べて分かるのは、私たちが、人(猫)の受難を見たときに相手の痛みを感じ、感情移入するということだ。たとえ、それまで恐れたり怪しんだりしていた相手であっても。そして、感情移入した相手に対して愛着を覚え、相手の幸せを願うようになる。
それは、読者としての私の限界を示しているようにも思える。結局私は、自分にとって脅威でないものしか愛することができないのだから。
しかし、このことに悲観するべきではない。脅威でないものしか愛せないことは、人間の本質なのだから。
哲学者の芦田宏直は言う。「人間は自由に殺しうるからこそ、自由に(=深く)愛しうる」3と。つまり、相手の脅威から自由であることが愛することの根拠なのだ。であるならば、むしろそこに人間の愛の可能性を見るべきではないだろうか。私たちは、どんなに恐ろしい相手であっても、相手の苦痛が見えた時、その痛みに感情移入し、愛情を注ぐことができる。それは、相手が自分と同じ「自由に殺しうる」弱い人間であると理解するからかもしれない。『邂逅』は、カネヒラと言う変なオジサンの切実な思いを伝えることによって、カネヒラを愛する機会を与えてくれる。自分以外の相手に心を注ぐ喜びを教えてくれる。私はそこに作家としての古西さんの資質を感じる。
- 古西さんの作品には、かわいいキャラクターの系譜と変わったキャラクターの系譜があるように感じる。その線で考えると、カネヒラは変わったキャラクターの系譜に連なるかもしれない。 ↩︎
- ここでは深入りしないが、桜井が、深い感情表現を可能にするために、一見単純なキャラクターに見える猫を、繊細な線で描いているのは興味深い。子ども向けのマンガに見る、単純化された丸っこいキャラクターのように、ベタッとしたシンプルな線で描かれていない。強弱のある繊細な線が複雑な感情表現を可能にしている。最終ページの、猫の泣き顔は特徴的だ。ただ泣くのではなく、涙をこらえる表情に、悲しさを耐えてきた日々がしのばれる。 ↩︎
- 芦田の毎日:「なぜ、人を殺してはいけないのか? ― 一つの〈責任〉論」
https://www.ashida.info/blog/2007/03/post_198.html ↩︎
