
きざむ時間とのる宇宙⏳️
時は歴るもの、心は過去のもの。
《ひらめき☆マンガ教室》で初めに驚かされたのは、きざみのりさんの第1課題『みちる』が見せる異様な奥行きの深さと輪郭の明晰さでした。それは、ネーム段階における1ページ目の最初のコマに大きく描かれた微笑む風船によってまずもたらされ、完成稿ではこの1ページ1コマ目が蝉の全身像へと置き換えられたことで、衝撃はさらに大きなものとなりました。マンガを描いたことが一度もないまま《ひらめき☆マンガ教室》の扉を叩いたわたしにとってその衝撃はあまりに想像を超えていたため、初読後しばし言葉を失くしたあと「びっくりしました。」から始まるコメントを課題作掲載サイトへ書きつけた際の興奮は、今でも鮮やかによみがえります。


ネーム冒頭の微笑む風船がたたえる両眼の虚無は、完成稿では蝉の白く光を照り返す両眼の不穏さへと置き換わります。その昏い不穏さは蝉のからだの極めて濃密な描き込みと、一切が省かれた余白とが生む鋭いコントラストにより倍加され、2コマ目の木造寺社建築の屋根瓦と壁や階段の木目がもつ濃密さへ受け継がれる。

初め蝉のからだに宿っていた不穏さの正体であるナニカはここで瓦や木目へと乗り移り、3コマ目ではぬがれた靴を載せる木板の木目へと濃度を薄める。さらに2ページ目冒頭では木製下駄箱の模様となって、ストーリーへと完全に従属する位置へと退きます。表層の物語を壊しかねないほどに強い“ナニカ”はこうして作品世界の底面へといったん抑制され、しかしこのナニカこそが、きざみのり時空の核心に今なお息を潜めうごめいている、という話をこれからします。

きざみのりさんの最新完成稿『交点』は、技巧的にたいへん優れた作品です。対になった二篇各々の扉ページ(上掲両図↑)を見比べるだけでも、仕込まれた巧緻を見つけることは容易でしょう。冒頭カットから交わらない二人の視線、切り返しカットでも二人のすれ違いは端的に強調され、タイトルの上下反転とコマ外の白黒反転が、これまでの展開とこれから始まる物語との対照性を端的に予告する。跳ね返った茶髪やパーカーのフード、吹き出しのしっぽなど青年側の丸みを帯びた描写各部位は男の優柔不断を暗示します。これに対して直線的に切り揃えられた前髪、尖ったまつげ、四角に枠付けられた内面の台詞から、鋭角的に付加された「フーッ」の擬音表現、角々しいコーヒーカップにいたるまで、女性に添えられた表現はそのすべてが、青年の優柔不断を責め立てるかのようにトゲトゲした情感を醸しだしています。

一年にわたる《ひらめき☆マンガ教室》の折り返し地点にあたる第5課題の完成稿として、扉ページ以降の展開においても本作『交点』は半年間の習熟が反映されたとても上手な、言い換えるなら技巧的な作品になっています。しかし同時にそこには依然、たとえば「木目」がやや過剰に思えるほど濃密に描き込まれてもいる。あるいは上掲2枚目の表紙絵ラストのコマにのみ存在する、黒色の多角形群。女性主人公の心情を反映する、打ち砕かれ中空へ霧散する鉱石の破片のような黒色多角形の群れに姿を変え、“ナニカ”がいまだ顔を覗かせてもいる。極めつけは公園に立つ時計柱の醸す、幽かな不穏さです。山水画における白描技法にも似たその白黒のコントラストに「蝉」の面影を幻視するのはなにも、真昼の孤独をともに感覚させるからだけではないでしょう。木目が《目》をもつ目撃者であるように、この時計もまた見つめているのです。寡黙に見守っている、設えられた主人公たちの演じる舞台を。彼らの物語の成り行きを。この世界のゆく末を。


唐突に私事を挟みますがコロナ禍前の数年を、インドシナ半島でわたしは暮らしました。魔都バンコクでの労働の傍らボルネオ島近海で潜り、ヒマラヤ山麓で馬に乗り、イサーンの森で瞑想する中で、アンコール文明やアユタヤ朝の壁画に魅せられ、クメール織りやジャワ更紗の紋様にとり憑かれました。アンコールワットの第一回廊に巡らされた全長800メートルに及ぶ大壁画を、おおかたの観光客は数十分で駆け抜け本堂へ向かってしまうけれど、壁画に描かれた神々の一挙手一投足にわたしは1週間をかけ熱中し、なお後ろ髪を引かれる思いでバンコクへと帰った日をよく覚えています。乳海攪拌をはじめ『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』の神話群を長大な浮き彫りへと引き写したその大壁画は固有の文法をもち、豊かな語彙をもち、暗喩に充ちた慣用句を散りばめている。それらに馴れてくると叙事詩的大音声が壁画の内外へとあふれ、屋外の大規模ロックフェスにも勝る爆音を地響きのように轟かせ全身を震わせて、回廊をとり囲む茫漠とした密林へと木霊するのを聴くことになる。

マンガには文法があり、読み手にマンガジャンルという共同体への参加を要請しますね。アンコールワットの壁画を聴くのと同じ作業を、マンガという表現領域ではたぶん、いまこの瞬間にも数億人が現に共有できている。タイでも香港でもマンガとアニメで日本語を覚えたひとにはたくさん会いました。アメリカン・コミックやバンド・デシネなどとも明らかに異なるそれが、国境を越え広く共有されているのは本当に凄いことです。そして読むためのマンガ文法への習熟以上に、この文法に則って描くことには技術が要る。この技術を過去半年《ひらめき☆マンガ教室》で学んだきざみのりさんの成果は、すでに述べたように『交点』の中だけでも十全と確認できます。巧くなっている。たいへん喜ばしいことです。と同時に、技術的研鑽を積んだあとにもなお、第1課題『みちる』で大きく口を開けていた「異様な奥行き」が、表面上は影を潜めながらも健在であることが仄めかされている。しつこいようですが、それはたとえば各所に出没する木目模様や、敢えて選ばれた手描きが情念の温度を感じさせるソファーの縫い目、正面と側面とで微細に異なる時刻を指す公園の時計盤などから窺われる。とても嬉しい。


「人間」は社会的存在です。そして社会は人がつくりだしたものであり、人は人が作り出したものではありませんから、おのずと人は己のうちに社会の外部すなわち「人間」の外側を併せもつ、矛盾した存在でもある。矛盾をもつから、自由になれる。技術や経済市場もまた、社会的産物ですね。マンガ作品は技術に卓越することで市場にのり、広く流通することでマンガ文法を共有する共同体を押し拡げる。だから巧くなっていくことは喜ばしい。きざみのりさんが次に何を描いてみせてくれるのか、いつもとても楽しみです。マンガ文法に則り、雑誌に載り、流通に乗る。呪いもここでは形を変えた祝詞になる。人はなぜ、マンガを描くのか。動機づけは様々にあり得るし、様々であるほうが俄然面白くもなるけれど、「外部」からの呼び声を聴かせてくれるマンガをわたしはとくに好みます。社会の外部、宇宙の外側からの呼び声。その作品にふれる前と後では、世界の見えかたが変わってしまうようなマンガをいつも探しています。いずれ自ら描けたらとも望みます。あまねく現象の底からの呼び声に応え、祝詞を書き連ねるようにして。だから世界は。

ひとりの読者として、きざみのりさんにマンガに感じるのはそのような、ナニカなのです。なのでした。
(おしまい)


補注:
※本稿執筆にあたり、作者きざみのりさんにはひら☆マン公式サイト未掲載の作品をご教示いただき、本教室提出作と併せ一部カットを引用させていただきました。ありがとうございました。引用元の集英社サイトはコチラになります。(第4課題完成稿に相当する作品です)
※※たとえば「正面と側面とで微細に異なる時刻を指す公園の時計盤」について、ネームと完成稿を見比べることでこのような見た目のズレを生んだ原因を単なるミスと推測することは容易です。この推測に従えば「異なる時刻を指す」は作者の意図しない表現となり「深読み」に堕すと言えます。(次項へ続く)
※※※ところで、作者が意図しない、すなわち無自覚な表現は、マンガ表現ではないのでしょうか。それはミスでありノイズであり単なる表出に過ぎない、という筋をわたしは採りません。なぜなら作者がそうであるように、読者もまた表現の担い手であるからです。作品は作り手だけでなく、受け手なしには作品として屹立しない。さらに言えば表現の担い手は、作者と読者だけではありません。彼らとわたしたちの奥向こうから、もうひとりの主格が坐してこちらを眼差しているのです。異様な奥行きの深さの底から。描かれた木目や時計盤の裏側から。いまあなたが見つめている、モニターやスマホ画面の向こう側から。
