【映画】スパイダーマン アクロス・ザ・スパイダーバース #001
映画『スパイダーマン アクロス・ザ・スパイダーバース』を見た。
ものすごかった。
生まれて初めて、物語のことなんてどうでもいいと感じた。それくらいに映像表現が素晴らしく、訳が分からなかった。
すでにいろいろなところで語られていることだが、この映画はアニメ・マンガ・ゲーム・映画といった映像コンテンツが培ってきた表現を余すところなく使い倒し、『スパイダーバース』という世界観を表現している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c3b95ea98ce1d7980b4dc9d4d515f0364056d3df?page=1
アニメのように極端なパースが付き、マンガのように画面が分割され、ゲームのようにカメラが動き回り、映画のようにアクションする。これだけ様々なメディアの表現を一度に取り上げているにもかかわらず、画面が成り立ってしまっている。つまり、映像としての意味が理解できてしまう。
ぼくにはそれがとても恐ろしかった。
『アクロス・ザ・スパイダーバース』を見て、「日本人がこれを作れなかったのはなぜだろうか」という意見が出てくるのもうなずけた。それほどまでに画面を構成する要素は日本発のコンテンツを思わせるものが多かった。しかし、その一方で、これほどまでにごちゃごちゃした画面を成り立たせるための感覚や技術は、日本人からは、なかなか出てこないだろうと感じたのも事実である。
こう書くと話が大きくなりすぎるが、それは、日本という国がほぼ単一の民族、あるいは、ほぼ似た身体的特徴を持つのアジア系の民族で成り立っているからだ。あれほどまでに、多種多様な人型、多種多様な人型の何かを目にすることは、日本国内で生きているとほとんどない。また、日本に住む人間のほとんどは日本語を理解し、日本語だけで日常を過ごせてしまう。
日本に住んでいる人間が、『アクロス・ザ・スパイダーバース』のレベルで、複数の言語を用いてキャラクターや家族像を掘り下げたり、世界観に深みを出したりするのは、相当な訓練を積まないと難しいだろう。そして、『○○バース』を成立させるには、このレベルで日常的な多様性を表現する必要がある。いやぁ、それにしてもすさまじい映画であった……。
さて、ひら☆マン+はマンガ系のサイトなので、マンガ的な視点からの感想も書いておく。
かつて、マンガ評論家の夏目房之介は忍者マンガの線についてこう語っていた。
この(引用者注:忍術マンガの)変幻自在さは、その頃のマンガの線についてもいえた。この時代、大人マンガを別にすれば、マンガとは子供のためだけのものだったし、子どものためのマンガの線とは、やわらかくて粘土細工のようにどんなふうにもなるものだ、そんな無言の約束のようなきまりがあったように思う。
『夏目房之介のマンガ学』ちくま文庫、p42
『アクロス・ザ・スパイダーバース』は、夏目のいう『子どものためのマンガの線』をそのまま当てはめたかのように、キャラクターをデザインしていた。否、夏目のいう『子どものためのマンガの線』を用い、さらにそれを発展させてキャラクターを表現していた。そしてこの技法は、スパイダーマンの原作がアメリカンコミックという媒体で発表されたこと、すなわち、カラー作品であることに担保されていたように思う。
このことは『アクロス・ザ・スパイダーバース』全体を貫く、世界移動時の輪郭線の取り扱いを見れば感じられる。この映画に登場する彼ら彼女ら、無限のスパイダーマンたちは、異世界と接触するとき輪郭線を曖昧にするのだが、その際にキャラクターの輪郭(=存在)をかろうじて保ってくれるのが色づけされたオーラなのだ(このオーラについては、大井センパイの言う『キャラクターの佇まい』と大いに関係すると思われるのでいつか聞いてみたい)。この表現は、白黒を、さらには、線を基本とする日本マンガの考え方からはなかなか出てこないものだろう。
とにかく、『アクロス・ザ・スパイダーバース』は画面としての表現がすさまじい映画だった。
日本で映像を用いた表現に関心がある人は、必ず見たほうが良い作品である。
以上!
実際のところ、カラーであることが重要なのは譲りたくないのだが、輪郭の表現についての根拠をアメコミに持ってくるのは乱暴である。だってアメコミにはちゃんと線があるもの。ちゃんとやるなら、印象派など、絵画の歴史を持ってきた方が説得力がある気がする。
おわり。