【WS】サスペンスの怪物 浦沢直樹「MONSTER」を読んで
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図書館は炎に包まれている。中心に立つのは、ブロンドの髪をもつ美青年。炎は彼の手引きにより放たれた。彼は微笑をたたえ、自身の額を指差す。撃つがいい、と。彼を狙う銃口、その向こうにいる日本人の元医師にむけて。青年の名はヨハン。元医師の名は、Dr.テンマ。
浦沢直樹「MONSTER」(小学館、1994~2001年連載)の一場面である。凄腕の脳外科医としてドイツにその名を轟かせるDr.テンマは、ある夜に担ぎ込まれた少年の命を救う。少年・ヨハンは銃弾を頭に受けていた。テンマは上司の命じる重要なオペを断ってまで、彼の命を救う。だが、少年の正体は自らを「怪物」と称する殺人鬼だった。
入院先の院長らを殺害して失踪したヨハンは、十年余りの時を経てふたたび出現、ドイツ各地で連続殺人を犯す。テンマは自分が蘇らせてしまった「怪物」を手ずから葬るべく、ヨハンを追う旅に出る。
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冒頭の一幕は第9巻に収められている(第6話)。この巻は全9話を収めるが、うち第1話から第6話に至るまで、テンマはヨハンを銃撃しようと試み続ける。だが実にさまざまな理由により、撃つことができない。標的を見つけた感慨(第2話)、元医師の自分が命を奪う側にまわることへの逡巡(第3話)、ヨハンの部下による妨害(第4話)、火災による目眩し(第5話)、ヨハンの双子の妹・アンナによる制止(第6話)。
撃てば終わるのに、撃てない。読者は手に汗を握りつつ、彼らの行く末を見守ることになる。銃撃の遅延。このあからさまな遅延は作中で初めてのことではないし、最後でもない。
第8巻の第3話「聖域」。狙撃銃を手に入れたテンマは、ヨハンを追ってミュンヘンの森に潜む。そこでは富豪・シューバルトとその息子が、正体を偽ったヨハンとともに散歩をしている。テンマはそこを狙おうというのだ。だが、一人の老人が現れる。森と野鳥を愛するその老人は、かつて国家社会主義ドイツ労働者党を信奉し、国家の命に従って、罪もない外国人をこの森で殺害したという。以来、野鳥は彼に寄りつかなくなった。老人はこの森で二度と血が流れないことを願い、話を聞いたテンマは狙撃を断念する。
また、最終・第18巻。テンマはある田舎町に辿り着いた。突如、雨の中現れたヨハン。銃を構えるテンマだが、またも邪魔が入る。怪物ヨハンの育ての親とも言うべき、フランツ・ボナパルタ。そして再び、ヨハンの妹・アンナ。それでもテンマがついに引き金を引く……と思われた時、銃弾は予期せぬ方角からヨハンを撃ち抜く。
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最終巻のほうは雨の降る町での攻防というシチュエーションも手伝い、緊迫感を生んでいる。だが第8巻についてはどうだろう。不謹慎との謗りはあろうが、ぼくは笑ってしまった。そりゃねえだろ、やりすぎだろ。
「撃ちたいが、撃てない」の反復。執拗な、転倒した笑いさえ生み出すリズム。
哲学者の千葉雅也は「センスの哲学」(文藝春秋、2024年)において、芸術におけるリズムやサスペンスを扱っている。〈物語における「サスペンス」とは、意図的に作られたストレスです。〉と千葉は指摘する。〈多くのわかりやすいと言われる物語では、0から1へという移行が強調されます。/しかし、物語の面白さは「途中」にある。サスペンスとは英語で「宙づり」という意味ですが、解決に至るまでが緊張状態として遅延され(宙ぶらりんになり)、小さな山が次々に発生し、そのひとつひとつに0→1の小さな解決がありますが、その連続と重なりがうねりを生んで、複雑なリズムになる。〉(p.93~94)
この作品はサスペンスの過剰により成立している。ヨハンやアンナの過去も巧妙に真相を隠され、明るみに出ることをひたすら遅延させられる。何よりそもそもヨハンの生自体、テンマの手でその終焉を遅延させられたものではないか。
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面白いのが、このサスペンスを終わらせるのが完全な第三者である点だ。最後にヨハンの頭を撃ち抜くのは、テンマでもアンナでもない。決戦の地・ルーエンハイムの町に住む、名もないアル中男だ。彼が撃つに至ったのには一応理由があるが、物語を追ってきた読者にとってはまったくの第三者であり、外部である。我々は意表をつかれながら妙に納得もする。現に我々自身が「はよ撃てや」などと思いつつ、胸中でヨハンに銃口を向けてはいなかったか。匿名の、外部の存在として。
浦沢の徹底しているのは、この物語をオープンエンドにしている点だろう。終幕、ふたたびテンマに命を救われたヨハンは忽然と姿を消す。このマンガのラストページに描かれるのは、空になったヨハンのベッドだ。これは物語序盤に描かれた失踪の再演であるとともに、サスペンスの永久の引き延ばしでもある。
ヨハンはどこへ向かったのか。終点は無限に引き延ばされ、我々のほうへ差し向けられる。(了)
*本ブログは「ひらめき☆マンガ教室」第7期ワークショップ「マンガの読み方・評し方」課題提出用の文章です。