【失われた30年と『東京ヒゴロ』作 タイラー
今回、取り上げるのは、松本大洋著『東京ヒゴロ』である。
この作品は、漫画が好きすぎる中年男性漫画編集者が2年で漫画雑誌を廃刊にした責任を取り、辞めるところから始まる。これは王道で、最初に主人公が困難に陥ってそこから這い上がるがどうなる? といったものだ。
ここで、漫画を好きすぎる主人公が本当に漫画編集者を辞めることが出来るのか? という謎が提示されて物語は進む。
だが、自宅の山の様にある漫画を古本屋に売ろうとして、漫画愛が凄くて売れず、漫画が大好きな主人公の中年男性は、ある決意をする。
主人公の中年男性は、今は違う仕事をしている大好きな漫画家たちに漫画の依頼をし、漫画雑誌を作る決意をする。依頼した漫画家たちには最初は断られるが、果たして主人公の漫画雑誌は完成するのか? というのがセントラルクエスチョン(主人公の目的)だ。
この展開は、桃太郎など古くからよくあるもので、ならず者や変人を集めて、共にミッションに挑むという王道展開だ。
だが松本大洋は、ならず者や変人を集めるのを主軸にし、ミッションに挑むのを省略した。これは娯楽が溢れ、目が肥えた人々を楽しませるためなのだろう。大概の作品はハッピーエンドなのだから、主人公の漫画雑誌が売れて終わるのは予想が容易い。
サブプロットは、以前は売れっ子漫画家だったが、魂の抜けた漫画を描く漫画家の周囲の人々の成長物語である。
この漫画は恋愛要素を廃し、漫画家や漫画編集者としての生き方を描く物語なので、サブプロットは、王道の恋愛要素ではなく、魂の抜けた漫画しか描けなくなった漫画家周りの人々の再起をサブプロットにしている。
漫画家や漫画編集者の生き方の話なので容易くない。松本大洋の匠なところは、生きづらさを描くことで、現代日本の閉塞感に包まれた失われた30年を生きる人々も共感できることだ。
生きづらさを描くことで、主人公が対峙する物語のハードルを簡単にどんどん高くでき、物語の強度も高めることも容易に出来る。流石としか言いようがない。
主人公が引用セリフにした言葉を引用する。
「もしあなたが善良な心を持っているなら、それは常にあなたの作品の中に現れるだろう。」
人間の優しさを表した素晴らしい引用だ。その引用セリフを話す主人公の中年男性漫画編集者も同じく優しい。
松本大洋作品によく登場する空を飛ぶ飛行機も登場する。自由に空を飛ぶ飛行機は、キャラクターたちの願望で、登場人物たちの不自由さを描いているからこそ、入れているのだろう。松本大洋の初期作品から登場する、空を飛ぶ飛行機が登場しなくても良い世界になれば良いと思う。
選挙演説するキャラクターが登場するが、セリフが吹き出しではなく擬音の様に表現され、セリフの内容が分かりにくく、選挙演説をする人の言ってることが聞くに耐えないという社会風刺も入っている。政治家はマニフェストをやるかのように言い、選挙の票を集め当選したら、やらないという暗喩だろう。実に嫌な暗喩だ。
林檎が色々な場面で登場するが、アダムとイヴが食べた禁忌の林檎と同じで、登場人物全員が禁忌の漫画という、林檎を味わってしまった暗喩だろう。
二つ目の引用セリフである「喜びとは苦悩の大木に実る果実である」というセリフも生きづらい世の中でも、理想を生きようという意味だろう。それに度々登場する林檎のことでもあると思う。
主なサブプロットの漫画家のクライマックスは、激しい風雨の中、傘が飛ばされて、恵みの雨の中、傘の柄をなんとか掴む。難航していた漫画を掴んだという暗喩で素晴らしい。冒頭で2回、主人公が、傘の柄という漫画を掴み損ねたのをクライマックスで、漫画家が代わりに掴む。
傘で始まり、傘で終わる。物語の王道展開だ。
クライマックスで、答え(テーマ)にたどり着いた主人公の漫画編集者のセリフ「想像する苦難の中に…その道程にこそ、喜びがあったのだと。」というセリフは、今は苦しいが、理想を想像することで、苦しい状況から逃れることが出来るのでは? ということだろう。
ラストは空を舞う開いた傘を出し、次の世代へ漫画や理想を繋げ、未来が開くという暗喩による松本大洋の希望で終わる。
残念なのは、テーマを表すモチーフの一つの林檎が最初から提示されていなかったことだ。最初から思いついていれば、傘の様に冒頭から登場し、林檎や林檎のオブジェなどが登場していたはずだ。だから、連載漫画は難しいのだと想像する。
この作品は、現代の生きづらい人々への優しい一つの答えで、生きづらい人々への救いだと思う。厳しい生活で行き場を無くした人にこそ、是非読んでいただきたい。
利権のためにしか動かない戦争がしたい政治屋にも読んでいただきたい。理解できるかは分からないが。
〈了〉